忍ぶれど……【拾参】
*
――元亀二年、某日。
夜空に一つだけ添えるなら、月が一番似合う気がする。
月の光が放つ妖艶さは、格別。吸い込まれてしまいそうな気になる。
掌を伸ばしても、包み込むことができるのは、月光などという洒落たものではない。絶望に打ちひしがれた気配の片隅で、毛先が流れ、敷布に落ちる音がした。
月夜に溶け込む、黒い髪。寝衣に忍ばせた丸薬を取り出したいのに、指一本動かすことも許されない。たったそれだけのことが歯痒くて、胸の奥がざわりざわりと波を打つ。
「お鯉は、まことに可愛いのぅ」
背を這う声音と掌から、生ぬるい体温が伝わって来る。汗ばんだ吐息の臭いに触れる度に、魂を削られる気分だった。
髪を弄ばれるのは、蜘蛛の糸に絡め取られるようだった。手を、足を、首を、目を。
体中、見られたところ全てを。
「愛でるんやったら、金魚よりも、鯉がよい。ちまちまとした魚は見えへん。鯉の方動きも美しいしのぅ」
(後で、鬼灯の根を飲まなきゃ……)
主の声を耳にしながら、ぼんやりと考えた。
身を起こしながら乱れた寝衣を整え、手拭で体を拭って差し上げていると、主が口を開いた。
「お鯉は、美濃に伯母がおるそうやな」
「はい」
自分を生んだ
「そうか。そなたを引き取りたい言うてる。しばらく時をあげるさかい、伯母君の顔を見といで」
主の掌が頬を包み込む。耳朶を舌が這うような、快楽と名付けてよいのか分からない感覚を覚えた。
「お鯉の伯母君は可哀想な人や。子を産めへんかったらしゅう、側室の産んだ子を養子にしてるらしおす。そやさかい、お鯉とその子は従姉弟やな」
掌を愛でるように撫でられる。主は桜貝のような小指を口元に運ぶと、ちゅぅ、と音を立てて吸い上げた。まるで飴でも舐めるかのように。
「その子の顔を見て来てくれるやろ?」
「はい。――様がお命じになられるならば」
「流石や!」
主は子供のようにはしゃいだ。抱き留めるなり、茵に押し倒して来た。拒むこともせず、主の肩越しに天井の模様を見つめる。
(伯母上の養子……)
以前、遠目にだが見たことがある。黒曜を思わす艶やかな髪と、真っ赤に燃える珊瑚の瞳が印象深い。
会うのは、これで二度目になる。
褥に爪を突き立てながら、お鯉はそっと瞼を閉じ、灯火のような双眸を思い出していた。
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