梅林止渇【参】
*
『於泉のことを、お前にやろうと思う』
昨秋の、奇妙丸の言葉が頭から離れない。
奇妙丸は長可を傍に置くために、1番大切な妹分を長可にやる、と言った。
(いやいや、そんなこたぁいいんだよ)
長可は顔を顰めた。
市の中を、於泉は幼子のようにはしゃぎながら歩く。櫛や鏡を手に取っては「可愛い」と顔を綻ばせている。
中でも於泉が気に入っているようだったのは、黒地に白梅の花びらが零れた絵が描かれている櫛だった。
「綺麗ね、勝蔵殿」
歯を見せて笑う於泉に釣られ、長可の頬も緩んだ。
出会って10年近く経つのに、於泉の顔は変わらない。勝蔵が長可になっても、於泉はいつもお転婆で、考えることが手に取るように分かる。
てっきり、買うのかと思っていたが、於泉は店主に詫びると、櫛を元に戻して市をずんずんと先に進み始めた。
「買わねえのか」
「うん。あんまり手持ちがないから。……あーあ。泉も、男に生まれたかったなぁ」
於泉は空に向かって掌を伸ばした。
すらりと伸びた手足は、池田家の中では、両親にも似ず、1人だけ異質に映る。気にならないのは、長可が於泉の倍以上背丈が伸びているせいだろう。あまり差は開いていない。
むしろ背丈よりも、頭の上で
「泉も男に生まれたかった。男に生まれていたら、兄上のように若のためにお仕え出来たり、勝蔵殿のように槍を振るったりすることもできたのだろうに。……わたしには、何もできない」
昨秋の長可の言葉を気にしているのだろうか。
長可が叱咤した後も、於泉は構わず弓を引いたり、刀を振り回したりしている。むしろ、腕は日に日に磨かれているくらいだった。
しかし、変わらない、変えていないと思っていた
実際、長可達が気にしていなくても、どうやっても於泉は年頃の娘だ。眉を潜める大人達も出て来ている。
変わらず、3人で菓子を奪い合って、戦になど行かずに遊んでいられたあの頃に戻れたら――そう思わないでもない。しかし、それは叶わぬ願いだ。
奇妙丸は徐々に
部門の家に生まれた以上、「戦は厭だ」とは思わない。そんな腑抜けたことを言う武家の者がいたら、
「わたしも、戦に行きたい」
「無茶言うんじゃねえよ、アホたれ。お前はどう頑張ったって女だ。天地がひっくり返ったって、連れて行かねえぞ」
勇ましいのは良いことだ。しかし、於泉を戦場に連れて行くことはできない。そうまでして出陣しなければならないほど、織田の兵は少なくはない。
「そうね。分かってるわ、そんなこと」
於泉は寂しそうに言った。
その表情に却って罪悪感を覚えた長可は、於泉から目を反らした。
「だけど、お前にしかできねえこともあんだろ」
於泉が意外そうな目で長可を見上げた。蘇芳色の双眸が長可を映し込む。
一見庄九郎とはあまり似ておらず、系統は真逆な美人ではある。唯一
「若にとっては、お前は心を
もう、朧気にしか思い出すことができない父・可成――。戦の武勇伝を語る父や、槍の稽古を付けてくれるときは、勇ましい背をしていた。
しかし、母といる時は、終始穏やかに笑顔をたたえていた。
男には男の、女には女の役割がある。
「それに、お前がいるから若は甲斐を警戒する余裕があるんだろ」
奇妙丸は、武田との同盟が破れても、諦めていない相手がいる。
於泉を傍に置いて盾にしながら、密かに甲斐への文や贈り物を交わし続けている。
段々気まずくなって来た長可は、わざとらしく会話を変えた。
「さっきの櫛、本当に買わなくて良かったのか? 随分見入ってたけど」
「ちょうど、ずっと使っていたのが古くなっていたから、見てただけ。今日は手持ちはあんまりなかったし、櫛もまだ使えるし、無理に買わなくてもいいかと思って。でも、綺麗だったなぁ」
「お前、白梅好きだもんな」
於泉の部屋の前には、立派な白梅が植えてある。於泉が生まれた時に植えさせたのだと言う。
「うん、大好き。わたしの1番好きな花なの」
そのせいか、於泉の持ち物には白梅をあしらったものが多くあった。
於泉は途中で饅頭を2つ購入した。1つを長可に渡しながら、
「勝蔵殿は、いつまで岐阜にいられるの?」
「半月くらいかな。あんまり金山を空けてばっかりもいられねぇからな。ま、若に挨拶くらいはしに行ってやるか」
「そんなこと言って。本当は若のこと大好きなくせに。若に挨拶しに伺うところだったんでしょ?」
「ちっ、ばれたか」
――無論、嘘である。
於泉が屋敷を抜け出しているのが見えたから、追い駆けて来ただけだった。
「そういえば、庄九郎から聞いたんだが。母御前様が懐妊されたそうだな。おめでとう」
一瞬、於泉の肩が怯えたように揺れた。ように見えた。
「そうね。うん、めでたいことよね。……早くお城に行きましょ? その前に、饅頭も食べちゃわないとね。硬くなっちゃう」
於泉は饅頭を食みながら足を速めた。
馬乗り袴で髪を高く括っていると、やはり似ている気がした。ふとした表情の作り方も。
「於泉っ」
呼び掛けると、於泉が首を傾げ、「なぁに?」と振り返った。
「……野菜の切れ端が、口に付いてるぞ」
「嘘!」
於泉が汗ったように口の端を舐めた。
化粧もせず、髪もただしばっただけ。
時折高貴な顔を見せる割には、子供のような顔を見せる。
いつかは別離になる。それでも今しばらくの間だけ、こうして子供のように
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