梅の香【捌】
*
元亀4年(1573年)、信重は父・信長に続き、京へと上洛した。
馬にまたがる貴公子の姿には、美濃中の者が無意識に目を奪われた。
「見て、あれが岐阜の若殿ですって」
「へえ……。巷じゃ青二才だなんだって噂されていたから、どんな人かと思ったけど……あんな綺麗な人が、お侍にもいるんだねぇ」
「あんな立派な方がおられるなら、織田家も安泰だ」
民家の影――被いた衣の隙間から、柚乃は馬の行列を盗み見た。
鎧兜を身に着けた織田信重の軍が、進んで行くのが見える。
輝くような濡れ羽色の波打つ髪。燃えるような珊瑚の双眸。真珠のごとき白い肌。
織田家は、美形の一族だとは聞いたことがある。信長はもちろん、妹のお
(姫様は……よくあのようなお方を前にして、恋の病に苦しまれなかったものだわ)
と、柚乃は主人に感動すら覚えるのだった。
信重の列を見送ると、ほどなくして庄九郎が馬に乗っているのを見かけた。
(若……)
何気なく、じっと視線を送ってしまうのは、於泉の兄だからである。すると庄九郎も気が付いたのか、ふっ、と口元を緩めた――気がした。
庄九郎を紅い梅に例えるのなら――信重は咲き誇った深紅の牡丹である。【百花の王】どんなに高名な歌人であろうとも、信重を称えるのに、もっとも相応しい言葉を思いつく者はいないだろう。
(姫様は……若をお見送りになられたのかしら)
母の奈弥に従い、妹の鮎や弟の古新らも、せっせと支度をしていた。しかし、於泉は「体の調子が優れないから」と言い、枕から頭を上げようとさえしなかった。
『於泉のことは、放っておきなさい』
奈弥の声を思い出した。薬師をお呼びすべきでは、と進言した柚乃に対し、奈弥の言葉は冷たく響いた。
『薬師を呼んだところで、治るものでもありませぬ』
奈弥は、どうして於泉に対してだけ、あんな風に冷淡に接するのだろう。
確かに於泉は跳ねっ返りで、冗談でも淑やかな姫とは呼べない。しかし、心根は優しいし、弟妹に対する面倒見だっていい。それは奈弥だって知っているはずだった。
行列が去ると、柚乃は市に入った。干した果実を売っている店を見かける。柚乃は、干し桃をいくつか買い求めた。
(桃は、姫様もお好きだし差し上げよう。干し桃だったら、長く保存もできるし、少しずつ召し上がっていただけるから)
なかなか食欲が戻らない於泉が、少しでも喜んでくれる姿を想像しながら、柚乃は小さく微笑んだ。
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