カクヨム先行 おまけ⑩ 錨を降ろして1(蒼い月はもう見ない)

 早朝、東京湾沖を航行中。海原のむこう、遠くにビルの都市が見えている。

 もうすぐ横須賀だった。


 今度こそ、この小部屋ともお別れ。二度と使うことはないだろう。

 お気に入りの丸窓には、今日は爽やかな青空。


「癒やしてくれて、ありがとう。陸に上がります。今後、ここを使うだろう補佐官も癒やしてください」


 その丸窓と空に敬礼をした。


 白い正装制服に身なりを整えた。今日は艦から降りる日。

 戦い終え、任務を無事に終え、心優も海から陸にあがる。



「心優、準備できたか」


 小部屋のドアからノックの音が聞こえ、開けたのは夫の雅臣だった。

 彼も心優が大好きな、白い正装姿。金のモールを肩からかけて白い手袋をしていた。


「うん。いつでも出られますよ。大佐」

「ちょっと入るな」


 夫として来た顔ではなかった。どこか元気がなく表情が暗い。それはどうしてか心優にもわかっている。


「確認しておくな。小笠原の秘書室には、最終確認をしてくれたか」

「はい。海東司令がお出迎えで渡す花束ですよね。ラングラー中佐が間違いなく手配を終えてくださっていました」

「そうか……」

「あの、御園艦長は……まだですか」

「ああ。いま、最後のお茶を是枝シェフからもらって、ご主人と向き合って楽しんでいるよ」


 心優も徐々に、胸が詰まってくる。


「笑顔なんだ。あの葉月さんが。アイスドールの、俺たちの艦長が……」


 もう雅臣の目尻に涙が滲んでいた。

 そう、今日はあのミセス准将が、ミセス艦長と呼ばれた葉月さんが、ついに航海任務を終え、空母艦を降りるのだ。そして、二度と海上に出ることもなければ、空母艦に乗ることもない。


 彼女の背を追って、彼女を師匠として追ってきた雅臣にとっても、ひとつ終わりを迎えることになるのだろう。


「臣さん。ずっと前に言っていたね。ミセス准将は常にアイスドールでいて欲しい人で、あの人が無表情で指示をしてくれているうちは、自分は必要とされる隊員だと思えた。でもその彼女が感情をあらわにして、俺の目の前で涙を流したとき、もう俺はこの人のところには戻れないと思ったって――」


 夫の希望も心も粉々に砕いた事故に遭遇した時のことは、心優もあまり話題にはしたくない。

 でも今日は、夫がそう語った気持ちを、心優も共感せざる得ない状態でいる。


「今日は涙を流しているミセス准将じゃなくて。笑顔のミセス准将なんだもんね……。葉月さんは、任務中は、あんなふうに奥様の笑顔で始終いることはないもの。……それって、私は……、もうアイスドールじゃないって……必要ないって……」


 心優の目にも涙が滲んできた。

 そんな妻を見て、雅臣がそっと白い制服の胸に抱きしめてくれる。


「今度は島でアイスドールに戻ってくれる。ただ艦の上ではもう笑顔でいていいってことなんだろ。わかっている。俺も見届ける」

「うん、私も。護衛官として見届ける」

「行こうか」


 頷いて、夫が迎えに来たそのまま、心優は愛着のある小部屋を後にする。



 艦長室に荷物を持って入ると、いつも一緒に食事をしていた窓辺のテーブルで、御園大佐と共に彼女がお茶を楽しんでいた。


「あーあ、これで是枝さんの、焼きたてスコーンも最後ね。このほうじ茶スコーンとクランベリースコーン、お気に入りだったのに」

「俺も、厨房でこっそり賄いをもらったが、それがまた手軽なのに美味くて。うちでも作ろうと思う」


 丸窓を開け、もうすぐ入港する横須賀港が見えてきたが、それでも、お二人でゆったりと最後のお茶を味わっていた。

 テーブルには光太が撮影したいくつもの写真がある。

 それを見ながら語らい、お茶をして、夫妻の会話を交わしていたのだろう。そのうちの一枚を、御園艦長が手に取る。


 それは網走沖まで、なんとか北上した時の海上の写真。流氷が遠くに浮かぶ写真だった。


「隼人さんが、あんまりにも流氷を見たかった見たかったというから、ギリギリまで北上させてもらったものね。よかったわね、念願の流氷が見られて」

「別に私情でもなかっただろ。ある程度北上して、最北大国への牽制も必要だっただろ。宗谷を回るのがいちばんの牽制だが、予定がずれて先に流氷が来てしまった。津軽海峡経由のオホーツク入り、ギリギリまで北上、それだけのことだろ」

「北上した途端に、いつものご挨拶で、またもやフランカーがやってきたけれどね」

「噂のご挨拶と、よく聞く決まった曜日に南下してくる『急行』の対領空侵犯措置も目撃できて、良い経験だったよ」


 お二人で写真を眺めて、ずっと思い出話に花を咲かせている。

 心優が来たことに気がついた葉月さんが、夫と向き合っていた席から立ち上がる。


「フライトデッキに行ってくる。最後だから」

「一人でか」


 そこまで夫についてきて欲しいのかどうか、御園大佐が探っているのがわかる。

 だが、葉月さんは静かに笑って心優を見た。


「一人にして。護衛と私だけにして」


 眼鏡の大佐はなにも言わず、心優の隣にいる雅臣は泣きそうな顔で俯いていた。





 白い正装服姿の御園准将と共に、心優も後をついて行く。

 ブリッジから甲板へと出ると、御園准将は白いタイトスカート姿の背を見せて、スタスタとフライトデッキへと向かっていく。

 幾分か甲板要員が作業をしているが、横須賀の風がそよぐなか、栗毛をなびかせて艦長は歩いて行く。

 彼女が立ったのは、カタパルトの発進地点。いつもそこに白い戦闘機やホーネットが配置され、カタパルトシャトルに繋がれ、出撃するところ。出発点だ。


 彼女がそこに立つと、離れて作業をしていた甲板要員たちが気がついて、皆が動きを止めたのが心優にもわかる。

 白い制服の女性艦長が、ただそこに立ってフライトデッキを見渡している。

 

お疲れ様でした。艦長!

ありがとうございました、御園准将!


 方々からそんな声がかすかに聞こえてくる。そして見える甲板要員たちが、こちらに向かって次々に敬礼をしているのだ。

 だが、すぐ側にいる心優から見える御園准将は、そんな彼らを瞳うつしていなかった。

いつも凍って見えた琥珀の瞳が見据えているのは、カタパルトのレール、そしてその向こうの海、眺めているとその視線が徐々に徐々に空へと向かっていく。そして心優も気がついたのだ。いつも鈴木少佐やクライトン少佐、そして他のパイロットたちがそうであるように、離艦するとき、甲板から飛び立った後、空へと機首を向け旋回をするラインを、彼女も目で追っているのだと……。


 それはきっと、この女性がコックピットにいた時のライン取りだったのだろう。

 いま、最後のフライトを、最後のフライトデッキから、彼女の心が空に飛んでいるのだ。


「さよなら」


 なにかに区切りをつけたかのようなひと言が聞こえてきた。

 心優が見たその人はその時、優美に微笑んでいたのだ。優しく、美しく、幸せそうに。


「お疲れ様でした。御園准将」


 心優の頬に涙が伝う。この顔は夫の御園大佐が見るべきだったのではないのか、今から呼びに行きたいと思うほどのものだった。


「いままで、ありがとう! 諸君の今後の健闘を祈る!」


 そこで最後に艦長として、甲板要員に向けミセス准将が敬礼をする。心優もすぐ側で、同じ白い制服姿で敬礼をした。


イエス、マム!


 甲板にその声が響くと、御園准将は颯爽と背を向ける。

 潮風に煽られる栗毛が、控えていた心優の目の前をかすめていく……。

 振り向かず去る彼女の背の向こうの海も空も煌めいているが、いちばん眩しく感じたのは、御園准将の白く輝く肩と金の肩章だった。


「行くわよ、心優。今度は陸から、空と海と……、夫たちを守るのよ」

「イエス、マム。どこまでも、お側に、ついていきますからね」


 ふっと見せてくれた笑みは、もう心優がいつも見ているミセス准将の凜々しいものだった。






 御園飛行艦隊空母が無事に横須賀港に帰港した。

 これからは必要な乗員を残し横須賀で一度修繕点検をし、小笠原待機海域にて艦を休ませ、訓練空母として停泊する予定。

 小笠原の隊員も一度、この横須賀で下船する。


 かなりの数の隊員が降りていくため、二時間はまだかかる。


 御園准将は丸窓に見える横須賀の港と海をずっと見つめていて、ずっと静かだった。

 そんなミセス艦長を、心優も、一緒に控えている光太も黙ってそっとしている。


 もう二度と戻ってこないだろうこの艦長室での最後の時間だ。

 余計なことを話しかけたり、気を紛らわすための問いかけも必要ない。

 どんなに重苦しくて、胸詰まがつまるほどに消えていく最後の時を刻んでいる人には触れてはいけない。

 心優と光太はそう決めていた。


 ついにその時が来る。

 


「艦長、雷神のパイロットたちも下船に向かったそうです。私たちも先に行かせていただきます」


 コナー少佐からの知らせに、御園艦長が『そう』と答えた。


「行くわよ、心優、光太」


 イエス、マム――と共に返答し、荷物を片手にボスと共にこの部屋を出る。


 ドアへと向かうとき、さすがに御園准将が艦長デスクの目の前で立ち止まった。

 じっとその机をみている。大きな艦長用のデスクを――。


 心優もそのデスクを見つめると、眠らなかった御園准将のことを思い出す。

 だが心優がそんな感傷に浸ったのも一瞬で、御園准将はすっとひと目留めただけで艦長室ドアへと向かっていく。


 通路に出ると、白い制服姿を揃えた雅臣と御園大佐が待っているところだった。


「行きましょうか、副艦長。指令室長」


 御園准将が栗毛をなびかせ、補佐の大佐二名の目の前を通りすがる。

 その後を副艦長の雅臣が続き、指令室長を務めた御園大佐が続く。その後に、護衛の心優と光太がついていく。


 甲板レベル階下へ行くエレベーターを使い、地上と同じ高さになる階下へと向かう。

 下船するタラップはいくつか設けられているが、そこから白い正装服姿に整えたクルーたちが、任務を終え晴れやかな姿で上陸していくのが見えた。


 心優がいま共にいる主要責任者である艦長と副艦長と指令室長を残し、すべてのクルーが港へと下船をすませた。

 港には迎えに来た家族とやっとの対面を果たす家族たちの笑顔に溢れ、抱擁する姿があちこちに見える。


 潮風に吹かれながら、最後に艦長が降りるタラップまで辿り着いた。


「最後に行くわ。先に降りて」


 艦長として最後に降りる。それは前回もそうであって、いつもそうしてきたことだった。

 本来なら、指令室長の御園大佐が先に降り、その次は副艦長の雅臣、最後は御園准将が護衛を伴って――という順になる。


 だがそこで雅臣が葉月さんに告げる。


「最後ですから、お二人一緒に降りてください。順番が入れ替わりますが、先に園田と吉岡と一緒に下船します」


 夫妻最初で最後の航海をした御園准将と御園大佐へ。雅臣の最後の餞だった。

 心優も雅臣とは打ち合わせ済みだったので、光太と顔を見合わせ頷き合う。


「降りたそこで、護衛として吉岡海曹と共にお待ちしております」


 雅臣がタラップを降り始め、心優と光太もそれに続く。

 タラップの下には静かに打ち寄せる岸辺の波が見え、その先にはコンクリートの陸。

 そこへと心優はついに辿り着く。


 終わった。わたしの航海も終わった。

 タラップを降りてすぐのところで、心優は光太と一緒に待機した。雅臣も心優の隣に控え、タラップの上にいる御園夫妻を見上げている。


 夫妻で並んで降りてくるのだと心優は思っていた。

 でも違った。御園大佐が一人で降りてくる。二人一緒に、降りて欲しくて雅臣と差し向けたことだったのに。それでも御園大佐も眼鏡の奥の眼差しを伏せ、静かに降りてくると、タラップのその下で止まって振り向いた。


「二人一緒にと言ってくれて、ありがとう。でも、最後なんだ。妻だ夫だより、艦長として下ろしてやってくれ。葉月もそうしたいということだった」


 雅臣が少し申し訳なさそうに俯いている。


「差し出がましいことでしたでしょうか。出過ぎた真似でした」

「いや。まだ終わってない。俺はここで待たせてもらうよ」


 タラップを降りてすぐのところで、今度は御園大佐が御園准将を迎え入れようと、上を見上げて待ち構えている。

 心優もわかってくる。ああ、そうか。そのタラップを降りて、陸に上がったときに『妻』に戻れるのだと気がついたのだ。


 眼鏡の大佐の眼差しがいつも以上に澄んでいるように心優には見える。そして浮かべている微笑みも穏やかだ。

 やっと御園艦長がタラップを降りてくる。静かに、横須賀の潮風に吹かれながら、白い制服を輝かせゆっくりと降りてくる。


 心優も静かに見守っていたのに。隣にいる雅臣がもう涙を流してすすり泣いている。


 ついに、御園准将がご主人が待ち構えるそこに辿り着く。彼女もタラップから一歩を踏み出し、陸へと上がった。


「お疲れ様でした。御園准将。最後に共に航海ができたこと忘れません」

「ありがとう。澤村」


 葉月さんが、輝く笑みを見せた。心優は我に返る。最後のフライトデッキで『これぞご主人に見せて欲しい笑顔だ』と思う以上のものだった。


「あんな葉月さん、初めてじゃないか」


 心優の隣にいる雅臣が、また涙声でそう呟くと目元を拭っていた。

 光太も同じく、もう最後の下船というだけで泣いている。

 心優はまだ。いや、もうフライトデッキで心を揃えさせてもらったから……、でも、やっぱり泣いちゃいそうだった。


 お二人がタラップから上陸したそこで肩を揃え並んでいる。

 港の風に栗毛を流し、清々しい様子の御園准将がこちらを見た。


「雅臣、ありがとう。これからの艦と海、そして空をよろしくね」

「はい。お任せください」


 心優と光太も見てくれたが、なにも言わなかった。

 おそらく、これから連れて行く部下だから別れは言わないのだと心優は思った。


「澤村……、いえ、あなた。ただいま帰りました」

「おかえり、葉月。では、最後に一緒に」


 お二人が見つめ合い、そこで頷き合うと、降りてきたばかりの空母艦へと向きを揃えた。


「また一つの戦いを乗り越えましたね。御園准将」

「そうね」


 そこで静かに笑みを讃えている葉月さんが、空母艦を見上げて言った。


「もう蒼い月は見に行かないわね、きっと」


 心優もハッとしたが。御園大佐はもっと吃驚した表情に固まっていた。


「そうか。……そう、なんだ……」


 あの夜明けに、御園大佐が教えてくれた『蒼い月』。夜明けに見に行くんだ、ヴァイオリン片手に、透き通る月が沈むのを追いかけているのは『終わりであって始まり』を確かめるための儀式だと言っていた。


 もうそれをしなくてもいい。

 もう戦わなくてもいいということに心優には聞こえた。


 彼女が追い求めた、葉月という女性の戦いと航海。それに錨を降ろすことにしたのだろう。

 また心優に新たな涙がこぼれてくる。


 それは御園大佐にもよく通じているのだろう。

 眼鏡の奥の黒目が潤んでいるのが、ここに控えている副艦長と護衛官にはわかってしまう。


「では。艦長。最後に錨を降ろすのを共にさせてください」


 御園大佐の言葉に、御園准将も笑顔で頷いている。


 お二人が空母艦へと向き合った。

 号令は御園准将自身から。


「最後の航海を無事に終えました。艦へ、敬礼!!」


 ご夫妻が並び、共に敬礼をした。

 雅臣と心優と光太も、控えているそこでそっと静かに敬礼をしてお供をさせてもらう。


 心優も敬礼をするそこで、ご夫妻の背中を見つめる。


 やはり、お二人の背は、白く輝いていた。



 御園葉月艦長、航海任務の錨を降ろし、上陸す。




錨を降ろして②に続く↓

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