27.艦長さんの切り札
「今日は来られなかったのですね」
雅臣もそこに触れてきた。御園准将がやっと顔を上げる。
「そうね」
「どうかなさいましたか」
「別に。私が甲板に行かなくなったのはいまに始まったことではないでしょう」
「貴女が、バレットとスプリンターに最前線へと指令を出したのですよ。気にならないのですか」
御園准将がどこか拗ねたように、雅臣から視線を逸らした。そんな上官を見て、雅臣が呆れた顔で少し溜め息をついたのがわかる。そして高須賀准将もソファーからそっと静かに伺っている。
心優と光太も妙な空気になっていくのを感じて、お互いに目線を合わせ、なにかが起きそうだねと頷きあう。
「わかりました。いいですよ、もう来られなくても――」
引き留めもしない雅臣の淡泊な受け答えにも、ミセス准将は反応しなかった。本当にどういう心境になっているのだろう。
そんなどこか無気力そうな御園准将を、雅臣はじっと見下ろしている。臣さん、平然としているようで怒っている? 心優にはそう見える。
「では。私から『艦長』にお願いがあります」
「なに」
サインをすべき書類の内容を読み込みながら、片手間に聞いてやるわよといわんばかりの准将の態度。それでも雅臣ももういちいちムキにはならず、大佐殿のクールな横顔に。
「切り札を準備してください。俺が最後の最後、駄目だった時の、切り札です。その切り札だけ準備してくだされば結構です。どんなものか出航までに考えておいてください」
「切り札を考えておけ?」
ギッと下から御園准将が睨んだ。そんな目、見たことがない。心優でもまだ見たことがない、あのアイスドールが怒りを露わにした目!
ゾクッとする。いままでもミセス准将が冷たくも燃える眼差しはなんども見せてきた。でも今日のは違う、青い炎が揺らぐ瞳ではなく、真っ赤に燃えさかる炎の眼!
「雅臣! いい加減にしろ!」
静かに見守っていた高須賀准将までもが、もうこれ以上は駄目だとばかりに立ち上がったほど。
それと同時だった。雅臣の胸元に、持ってきたデータファイルの束がバサッと投げつけられる。
「ばかにしないで!!!」
ミセス准将がデスクに『バン!』と手をついて、立ち上がった。
なのに今度は雅臣がしらっとしている。
「なにか気に障りましたか?」
「切り札を考えておけ? なにその答がすぐにわかっちゃう『簡単な問題』は。艦長さんに宿題のつもり? その切り札は何時間も何日もかけて考えなくては思いつかないものだと言っているの?」
ミセスの問いかけに、雅臣は黙っている。言い返せないのか、予測通りなのか、妻の心優でもわからない。
その雅臣に、御園准将はさらに吼える。
「そんな『簡単な答』を如何にも考え抜かないと思いつかないようなものだから、出航までに考えておけ!? ばかにしないで!」
そして御園准将は、その熱くなった感情のまま雅臣に真向かう!
「貴方の言う切り札はね! 艦長になった時にこの胸に隠し持って搭乗するもの! そこにいる高須賀さんも持っている! それを考えておけ? しかも、もう私にはその切り札を使う役目しかないというわけ!?」
「そうです。あとは俺がやります。ですが最後の切り札は『艦長』でなければ使えないですから」
あの葉月さんがまたデスクに『バン』と両手をつき、デスクを挟んでいるとはいえ、雅臣に詰め寄ってくる。
「いいわよ。その切り札、準備しておいてあげる。とてつもなく真っ黒な切り札をね!」
最後にアイスドールと言われた彼女が、大事にしている万年筆ですらビシッとデスクに叩きつけ、ほんとうに怒り心頭かっかとした様子で准将室を出て行った。
もう心優も唖然、茫然、動けず見送ってしまった――。
すぐに高須賀准将が雅臣のそばに駆け寄ってきた。
「雅臣、いまのは言い過ぎだぞ!」
「わかっています。もうそれしか残っていませんよと伝えれば、まだ未練があるなら動くと思って」
「はあ? そこまでわかっていて、あんなことお願いしたのか」
高須賀准将までもが、額を抱えふらふらと脱力している。
「雅臣、おまえ、いまの俺だったら怒るだけではすまさなかったぞ。葉月ちゃんが女性でなんだかんだいって寛容で、そしておまえのことは頼りにしている一番部下だと思って甘えたのか」
「一番部下だからやってやったんですけど。そういう自負はありますよ。俺は葉月さんの後継大佐だと。俺、高須賀さんだったらあんなことやりません」
葉月さんだからやったとケロッと言い放つ雅臣の平然とした様子にも、高須賀准将は『おまえな!』とがっくりうなだれている。
「おまえ、切り札なんて言うなよ、お願いするなよ。それだけは絶対にお願いしては駄目だ。俺達が胸に秘めて決して誰にも見せない言わないその切り札は、艦長だけの特権だ」
高須賀准将も『艦長の切り札』と言われて、なにを示すのかすぐにわかっているよう。御園准将が言うとおり『艦長として艦に乗る時に、その胸に準備しておくもの』というのは本当のようだった。
「わかっています……。でも、もうそれしか……」
「しかし。あのアイスドールがあんなに熱く怒るだなんて。良いものを見ちゃったなあ~」
最後に、高須賀准将はにんまり。結局、他人事、部外者、よそ様のご事情――のスタンスらしい。
その雅臣が心優を見た。
「いいのか一人にして。護衛官だろ。早く行け。ここでは夫よりもボスだ」
「かしこまりました。准将室をお願いします。吉岡君、行くよ!」
「は、はい」
今日もまたびっくりな吉岡君が慌ててついてくる。そして心優も急いでボスの後を追う。
「うへえー、またすごかった! なんすか、もう~毎日毎日。俺、ついていけないっす!」
「わたしもだよ。葉月さんがあんなに感情的に怒るなんて、旦那さんの隼人さんだけだと思っていたのに……。ううん、隼人さんに怒る以上の怒り方だった」
まさか仕事場の部下に対してあんなに憤るなんて、初めてだと心優も思う。
しかしもう彼女の姿は通路にも階段にもない。さて、どこにいった?
「グラウンドかな、それとも陸部訓練棟の自販機? ……中庭で花を見ているかも」
いままでボスが密かに心優をサボタージュに連れていってくれた場所を思い出して――。
かわいい桃色の百日紅が咲いている中庭にはいなかった。陸部訓練棟は遠い。そこまで行って見つからなかったら……、とてつもないタイムロス。まだ飛び出して間もない。まだそこまで辿り着いていないはず。
とにかくそっちへ走っているうちに背中を見つけることができるかも。
「吉岡君、こっち行こう」
光太と一緒に早足で追いかける。
「心優さん、切り札ってなんですか。あんなに怒るだなんて」
「わからない。艦長だけの特権だと言っていたから、本当に緊急の時にしか使えないなにかがあるんじゃない」
「真っ黒なと言っていましたね。そんな切り札使えなんて、准将に甲板に来て欲しい煽りにしては、ソニックもちょっと大袈裟な気もします」
吉岡光太は『俺、まだなにもわかりません』という顔をして、実はその核を一目見たその時にしっかり掴んでいることがある。心優はそう感じることが多くなった。
そんな後輩だからこそ、心優はだんだん頼りにしてきているし、毎日一緒にいる安心感を得るようになってきていた。
それにしても。いまの大佐殿、凄かった! アイスドールをあんなに怒らせるだなんて! そこで心優はハッと思い出す。
「そうか。あれがアイスドール崩し!」
アイスドールの仮面を剥いでやる。雅臣がそう決意していたこと。『俺は酷い部下になる』とも言っていた。まさにその通りだった。
でも、臣さんも、御園准将もなにを考えているのだろう? しかもこんな喧嘩をして、険悪にならないといいなあ。そこは心優もちょっと心配。
「心優さん、あれ」
心優と光太が急いでいた通路突き当たり、そのドアを開ければ外の渡り廊下に出るというそこに、ミセス准将の背中を見つけた。
やっぱり陸部訓練棟まで行って、道場横にある自販機にあるお気に入りのレモネードを買って、芝土手があるグラウンドに行くんだ! 彼女のお気に入りのコース。
秘密の場所のようで誰もが知っている御園准将がふらっとやってくる休息の場所。
「あれが噂の、芝土手とレモネードへの道ですか」
光太にも話してあったので気がついたようだった。
そこで心優は歩く足の速度を落とす。
「吉岡君、気がつかれないように行くよ。いまはわたし達とも一緒にいたくないんだよ。一緒にいて欲しい時は『後を追えるスピード』で追いつくように遅く歩いて待っていてくれているのに、今日はもうあんなところ」
「わかりました」
「大佐嬢に昇進する時に、テロリストをやっつけたことがある人だからね。気配に敏感だし、耳も良いから、気取られないよう、そっと静かに付かず離れず行くよ」
「イエス、マム!」
二人で息を潜め、見失わないよう……。静かに静かに後を追った。
高官棟を出て、四中隊五中隊棟を通り過ぎていく。そうそう、こうやって全ての建物を通って、いちばん奥にある訓練棟に行くんだから。
そう思っていたのに。あるところで、御園准将がひょいっと外に出た。陸部訓練棟まではまだだった。
でも心優と光太は顔を見合わせる。無言だったが、ボスがどうしてそこへ向かっていたのか『にわかに信じられず』ともわかったから。
外に出た彼女が向かったのは、シミュレーションの『チェンジ』がある建物。教育隊と呼ばれる工学科が所属している六中隊棟の外だった。
渡り廊下を歩く御園准将があたりを見渡す。誰もいないとわかってか、そのまま建物の横、誰にもわからないような影に隠れた。
『まかさ……、あの准将がそんな、あんなところに隠れるなんて』
『でも、きっとそうだよ』
二人はその建物が見える通路窓から姿が見えないようちょこっとだけ額と目だけが出るぐらいに留めて、ミセス准将の行動を見守る。
心優は腕時計を見る。たぶん、そろそろ? もう少しあと? その予測する定刻にミセス准将が望むことが起きるとは限らない。
「心優さん、来ましたよ」
窓辺で一緒に外を見守っていた心優は光太が指さした先を見て、慌てて近くにある自販機の陰に隠れる。光太もきちんとわかってくれて、彼はひとまずそばにあった休憩ブースに隠れる。
光太が見つけたのは、『御園大佐』。黒髪眼鏡の工学科科長がずっと向こうに現れたのだ。
彼も、ミセス准将が出て行ったドアを開け、外の渡り廊下を辿っていく。そこで心優と光太は今度はチェンジ室へ向かうドアまで駆けていく。そのドアをそっと開けて覗いてみれば……。
御園大佐がチェンジ室の自動ドア前に立ったその時。
「隼人さん」
建物の影に隠れていた御園准将が静かに出てきた。
「葉月、どうした。そんなところに大隊長たる准将が……」
当然、ご主人は大隊長である妻がそんなところにひっそりと身を潜めていたことに驚いたご様子。
「うん、ちょっとね」
「ちょっと、なのか、それ」
おまえのちょっとはちょっとではないだろうと言いたそうな御園大佐の目。そしてあのミセス准将も照れた顔をして、ちょっとずつご主人がいるところへと近づいていく。
そんな奥様のやっていることが焦れったかったのか、御園大佐からミセス准将へと歩み寄っていく。
「どうした。ちょっとじゃないだろ」
御園大佐が厭わず、ミセス准将の腰を男らしい腕で抱き、自分の身体まで力強く抱き寄せた。
「隼人さん……」
あのミセス准将が真っ赤になったのを見る。
心優はああいう葉月さんを見たことがあるので落ち着いていられる、でも、横にいる光太は初めて見るボスのかわいい奥さん姿に『うわ~』と耳まで真っ赤にして目を覆った。
御園大佐はそうして、ミセス准将を奥様にしてしまう。眼鏡の奥の目を優しく崩し、さらに奥様と密着するように抱き寄せ、チェンジ室へと連れ去るように歩き出す。
「ひさしぶりに、チェンジに乗ってみるか」
「いいの?」
恋人同士のようにぴったりとくっついて、お互いの目線を絡ませて。御園大佐の腕は奥様の腰のくびれをしっかり抱き寄せて――。
「データ残さないようにしてやる。俺もひさしぶりに、おまえの後部座席に乗っちゃおうかな」
「十分ぐらいで気分が悪くなっちゃうくせに」
「ほんとに俺、パイロットの素質なかったんだな。がっかりするけど、葉月が疑似でも空に連れていってくれる瞬間が好きだな」
そんな会話をしつつ、二人の目と目がじっと見つめ合っている。下から夫を見つめる葉月さんと、じっとすぐ下に見える奥様の目を見つめる隼人さん。ふたりの鼻先が触れ合いそうなほど顔を近づけて、もうキスしちゃうのかも――!? 心優はついドアの隙間を狭めて遠慮する。
次にドアの隙間を広くした時は、もうチェンジ室の自動ドアは閉まってしまい二人の姿はなかった。
「うわー、もう俺、ダメだ、ダメダメ! あんなミセス准将見なかったことにする!」
光太が真っ赤になって悶えまくっているので、心優は苦笑いを浮かべてしまう。
「艦に乗ったら、けっこう目の当たりにするかも。見て見ぬふりするの頑張ろうね」
「あんなにラブラブ夫妻だなんて知らなかったーー。もっともっとお互いにクールにやりとりする軍人夫妻だと思っていたのにっ」
「そうかな、結婚しているんだから、そんなもんだよ。ふたりきりの時にクールなわけないでしょ」
「くっそ、カノジョが欲しくなってきた、うわーーー」
純朴な後輩には、刺激が強かったようだった。
「これで大丈夫そうだね」
限られた者しか入れいないチェンジ室だから邪魔も入らないだろう。あのミセス准将が素直にご主人に仕事の相談をするとは思えないけれど。それでもご主人を頼った。本題を切り出せなくても、きっと隼人さんも察して癒してくれるだろうと心優は安堵する。
「ひとまず秘書室に報告に行こうか」
「はーい」
その帰り道、心優は改めて雅臣の本気を思う。
ミセス准将を追い込んで、旦那様のところに逃げ込むほどに追い込んで――。
もしかして、臣さん? 今度は艦から葉月さんを追い出そうとしている?
ふとそう思い至ってしまった。
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