35.小雨の空母搭乗

 出航当日、午前。

 心優は御園艦長と共に桟橋にいる。


 残念なことに雨が降ってきた。

 珊瑚礁の美しさはくすみ、明るい青色のはずの空がどんより暗い。


「急いでください。海が荒れたら艦長乗船が遅れてしまいます」


 一般隊員の乗船は早朝にすべて完了した。御園大佐も雅臣も数日前に一足先に乗船、艦の指令室での業務を開始している。甲板要員もパイロット達も、すべてのクルーがこの桟橋で家族と別れ、数日に分けて空母に搭乗している。


 最後、艦長一派が乗り込む。


 心優は既に横須賀に戻った父と食事をして別れたので見送りはいない。でも小さな雨粒が落ちてくる空を見上げ、今日思うのは、アサ子義母だった。


 行ってきます。アサ子お母さん。帰ってきたら臣さんと会いに行きます。

 そう誓って。息子がどんな重責を負うのか、口にしなくてもわかっているはずだった。またハーレーダビッドソンに乗って湖畔を飛ばして案じる母の気持ちを振り払っているに違いない。


 栗毛の息子とヴァイオリンケースを片手に持つミセス艦長が別れを惜しんでいるところ。外国映画のように、ふたりががっちりハグをしてしばらく離れないのを見ていると、心優もちょっと涙ぐんでしまった。


 光太も初航海とあって、急な転属でしばらく会えなかったご両親が、わざわざ小笠原入りをしてくれ基地に入る許可を得て見送りに来ていた。


 ハワード少佐も奥様と十歳ぐらいのお嬢ちゃんと。こちらも初航海、福留少佐も奥様とのお別れを惜しんでいる。おなじ秘書室のウィル=コナー少佐も同じく、まだ小さな赤ちゃんを抱いている綺麗な奥様としばらく抱き合ったまま離れがたそうにしていた。


「心優は父ちゃんと会ったばかりだしな」


 同じく、家族の見送りはもう別の日に終えているシドが隣に並んでいた。


「うん。シドもお父様とお母様に会えて良かったね」

「別に。見送りなんていらねえよ」


 いつものシドの冷めた目。でも心優もわかる。こんな人目がつくところで大好きなお母様とお別れすると、シドも抑えられない感情が溢れて、それを見られるのが恥ずかしくなるのだろう。


「今度は猫隠れじゃないんだね」

「でも夜行性になるけどな」

「そうなんだ?」

「ま、指令室でおなじセクションの配属だからさ。よろしくな」

「こちらこそ。シドが一緒なら頼もしいよ」


 にっこり笑うと、シドが照れて背を向け先に連絡船へと乗り込んだ。でも家族の見送りがない者同士、一緒に乗り込んで隣に座ると、シドがちょっと嬉しそうに口元を緩めてくれる。独りじゃないと感じてくれたようだった。


 再度、クルーザー操縦士が声を張り上げる。


「急いでください。この後、波が立ってきますからその前に!」


 それぞれ家族と最後の別れをかわし、ようやく連絡船へと向かってくる。


「お待たせ。いよいよね」


 ヴァイオリンケースを持つ御園准将がキャリーケースを引きずりながら乗り込んできた。御園秘書室、指令室の一行乗船完了。いよいよクルーザーが離岸。


 桟橋で光太のお母様とコナー少佐の奥様が特に前に出てきて、ずっと手を振っている。でも栗毛の少年は何度も母親を海へ見送ってきたせいか、後方にたたずんでいて落ち着いている。手を振りもしない。その姿が遠目に見ても、御園大佐に雰囲気が似て見える。容姿はお母様そっくりなのに、男としての雰囲気は父親そのものだった。


 屋根も窓もガラス張りの船内。曇天が重くのしかかってきそうなガラス屋根にぽつぽつと雨粒が落ちてくる。


「はあ、雨の出航になりそうね」


 御園准将も溜め息。

 天候に合わせ、どうしてか船内は重苦しい空気だった。

 まるで、今回の任務はいまからこのような晴れない空につっこんでいくものだと物語るかのように。





 御園艦長がブリッジ艦長室入り。ついに空母が出航をする。

 その時にはもう波が荒れていて、大雨になっていた。甲板に打ち付ける雨音が、艦長室の開いている丸窓から聞こえてくる。


 潮の匂いに荒い波の音、そして雨の匂いと風。日中なのに甲板には照明がつけられる。


 艦長はデスクにおちついて、出航準備が整う報告待ち。心優と光太も入ってきたばかりの艦長室にて、自分たちのデスクを整えている最中だった。


 前回同様、艦長デスクのすぐそばに心優と光太で並ぶ形で配置した。


「心優、部屋はどう」


「はい。前回と同じお部屋ですので、かえって懐かしいです。また窓から様々な海と空の景色を見られると楽しみにしていました」


「光太はどう。指令室の男性同士の相部屋だけれど。大丈夫かしら。初めての航海で、先輩ばかりでしょう。ストレスがたまるぐらいなら、管制室クルーが寝泊まりしている階下の部屋を用意してあげるわよ」


「大丈夫です。秘書室の先輩達だから慣れていますし、それに最近、フランク大尉がよくしてくれるので頼りにしています」


 まあシドが? 葉月さんもちょっと驚いたようだった。


 最近見られるようになった、シドと光太のおつきあい。心優が結婚してダイナー通いが減ると、シドのおでかけのお供は鈴木少佐はそのままだけれど、光太も誘うようになったとか。


 ついこの間も『光太、女を紹介してやるから来いよ』なんて変なお誘いをしていて『変な遊びを吉岡君に覚えさせないでよ』と釘を刺したばかりだった。


 なのに男同士で、心優にはわからない夜遊びでつるむようになっている。でも光太はそれが嬉しいようで(バレットともお近づきになれて)最近はシドの後をついて楽しそうだった。男同士で仲が良いなら、女の心優も首は突っ込まないそう決めている。


「失礼いたします」


 副艦長の雅臣がはいってきた。ひさしぶりの旦那様。雅臣も副艦長としてまた一足先の準備に空母に入り浸りになってしまい、つい四日前に『たぶんもうここには帰ってこられないと思う。仮眠は艦内でできるから』と言って、官舎を既に旅立っていた。雅臣が空母入りする前夜はふたりで遅くまで熱く抱き合って、愛しあったばかりだった。


「管制、操縦、機関、甲板、警備、すべて準備が整ったとの報告が揃いました」


「わかったわ。ありがとう」


 御園准将が席を立ち、艦長室を出て行こうとする。その後を心優と光太もついていく。


 艦長室を出ると目の前はブリッジ管制室、操縦室。そこへ御園准将が入室する。


 管制室クルーが皆立ち上がり、ザッと敬礼をする。すでに御園大佐も秘書室のメンバーもそしてシドも揃って並び敬礼にて艦長を迎え入れる。


 御園艦長が指揮カウンターへ立つ。管制クルーがレーダーを眺めている席より上にあるため、そこから管制室を見渡す形になる。


 心優と光太はその背後に控える。そして雅臣は……。


「城戸副艦長、隣に」

「イエス、マム」


 すでに紺色の指揮官服を着ている大佐殿が、まだジャケット制服姿の艦長の隣に立った。


 艦内全放送に対応したヘッドセットが艦長に渡される。彼女がそれを頭につけ、マイクを口元に寄せた。


「こちら艦長。残念ながら、天候は雨。波もややあるが、」


 ミセス艦長が海の男達を従える時の声になっている。

 彼女の目がブリッジ向こうの波が立つ海へとまっすぐに向かう。


「関係ない。この空母は皆により護られ、前進する。諸君、配置につけ」


 ミセス艦長の低い声が艦内に響く。


「出航!」

イエス、マム!


 管制室全体、敬礼をするクルー達の姿。

 心優も敬礼をし『イエスマム』と声を張り上げる。


 大きな空母だからすぐに動いたかどうかは普通の船と違ってすぐに体感することはない。


 それでも艦が波間に向かって動き出した。


「さて、ひとまず艦長室の業務に戻りましょう」


 いつもの葉月さんの声に戻っているし、穏やかな表情にも。心優もほっとして彼女のそばに付いていく。


 なのに。光太がまたぶるぶる震えている。


「うわ~。かっこよかった~。うわ~、俺、ほんとに艦長殿の出航号令の真横にいた~、うわ~、管制室かっこえー、一斉の敬礼しびれる~」


 今日から毎日空母空母ともうのぼせあがっていて心優は苦笑い。そんな光太に言わずにいられない。


「吉岡海曹、ここ現場だからね。気を引き締めてね」

「イ、イエスマム」


 心優にきちんと敬礼をして、近頃良く見せてくれるようになった男らしい真剣な眼差しに戻ってくれた。


 でも御園准将はやっぱりそんな光太を見てくすりと笑っている。結局、こういう光太が場を和ませてくれるから大目に見るしかない。


 艦長室に戻ると、そこはいつもの御園准将室とおなじ空気になる。

 それでも各部署のリーダー達が入れ替わり立ち替わり出航後の報告にやってきて、夕方までは心優も光太も艦長室のお手伝いで多忙を極めた。


「はあ~、毎度のことながら、人数の多さに目が回るわー」


 さすがの艦長も何千人も収容する空母の長が仕事となると、各所責任者と疎通を図るのが大変そうだった。


 それでも挨拶に来るリーダー達は『お久しぶりです』と笑顔になり、『またご一緒に出来て嬉しいです』と、日頃はなかなか話せないミセス准将と会えて嬉しそうだった。


「光太。今日、挨拶に来たリーダーの記録、ちゃんと残しておいて」

「なにをお話ししたかも簡易的ですが記録してあります」


 気が利くサポートもラングラー中佐から引き継いだものだった。


 外の丸窓は雨のせいか、夕暮れは見られずにいつもより暗くなるのが早い。丸窓にはときどき雨が吹き付けてくる。


「心優、窓を閉めて。光太、お茶にしましょう。ミルクティーをお願い」


 訪ねてくる隊員が途切れた頃合いで、准将が夕方のお茶をご所望。

 光太も慣れた手つきでミルクティーを煎れている。


「お待たせいたしました」

「ありがとう、吉岡海曹。あなたも好きなものを入れて、城戸中尉と休みなさい。三十分、休憩よ」

「ありがとうございます」


 ティーカップを片手に、艦長がほっとひといきついている姿を見て、心優と光太も顔を見合わせる。


 二人一緒に指令室の給湯室にて好きなドリンクを準備する。


「艦に乗っている気がしないですね。部屋はかわりましたが、いつもの准将室にいるかんじです」


「そうだね。そう感じられるなら大丈夫そうだね。あとはあれだね、今夜はわたしが起きているからいいよ。初航海の吉岡君はしっかり夜は休んで」


「申し訳ないです。心優さんが上官なのに」


「気にしないで……。わたし、前回の初航海で艦長が眠らない体質だということを知らなくて、初日の夜に気遣ってもらってひと晩ぐっすり眠ってしまったから。吉岡君も気にしないでほんと」


「そのかわり、明日は心優さんが仮眠の間は任せてください。でも今回は艦長ご主人の御園大佐も一緒だから、早い内に眠ってくれるといいですね」


「たぶん。海東司令もそのつもりでわざと御園大佐を配属したんだと思う」


 艦が無事に運行できていることを確信できるまでは眠らなくなる御園艦長。また三日や五日も眠らなくなると業務に支障がでてしまう。

 指令室の男達が第一難関と構えているところだった。

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