5.御園大佐 女性教育枠
海の色が紺色に染まる宵の口、この日も心優は最後の仕事として、光太と一緒にミーティング室の片隅で向きあう。
「今日は鈴木少佐のことを話しておくね」
「鈴木英太少佐、バレットですね」
「そう。彼を見て、吉岡君はなにをかんじた?」
うーん、と光太が唸る。
「日本人離れの体格、恵まれた身体能力、エースパイロットで、スワロー出身。悪ガキと言われているけれど、戦闘機パイロットとなればエリート。そして、ミセス准将との関係が、他の男性とは異なる、でしょうか」
「うん。そうだね。鈴木少佐が、御園家の家族の一員であることは知っているね」
「はい。ご両親も、ご親戚も、いらっしゃらない……ということですよね」
「そう。だから御園家が、鈴木少佐の身元引受人にもなっているほどなの」
そこから心優は、御園家と鈴木少佐の深い関係といきさつを光太に語り、叩き込む。
ご両親はすでに他界、引き取ってくれた叔母も数年前に他界。天涯孤独になった鈴木少佐を御園夫妻が弟のようにして受け入れ家族同然に付き合っている。鈴木少佐が『うちに帰る』とか『帰省する』と言えば、そこは御園家になる。
「鈴木少佐にとって、御園准将は、葉月さんは、上官以上に、お姉様なの」
でも。彼自身が『ずっと一緒に空の仕事をしたい。俺が空の仕事をするのは葉月さんだけ』という信条を今日、捨てた。
そのことも光太に告げる。光太も急にしゅんとてうつむいた。
「あ、だから。御園准将が涙を見せたんですね」
「そうよ。自分の手元から教え子が巣立っていく師の気持ちであったり、弟を見送るお姉様の気持ちであったとも思うんだ。だからこれからも、そういう気持ちを持って鈴木少佐が空に挑むということは覚えておいてほしいの」
「わかりました」
鈴木少佐が、葉月さんに恋していたことがある。でも、いまはそのお嬢様の杏奈ちゃんと――。は、今回はやめておこうと心優は胸の奥にしまった。
これから『知らなかった』ことで済まされないようなことは、こうして少しずつ教えている。
「あとね。御園准将の『お散歩』というものがあってね」
「お散歩?」
「秘書官を外して、ひとりでふらっと何処かに行ってしまうの。良く言えば、一人で基地の見回り、でなければ、悪い癖……かな」
「え、俺達の目を盗んで、ですか???」
「そう。休憩時間とかではなくて、突然、ふらっと」
そんなこと許されるのかと光太も仰天している。
これがここでは許されるんだよなーと心優も苦笑い。
「でも、業務の差し支えにならないよううまーく抜けるの。すっごいお上手だから目を離さないように。あるいは、そのお散歩に黙ってついていって『ついていくことを許してもらう』ようになること。特にわたしと吉岡君は、専属護衛みたいなものだから。気を許してもらえるように、准将の顔色や目線とかちょっとした言葉には敏感でいるように」
御園准将がいなくなったら『まずここを探せ!』というものも、光太にはメモさせておく。グラウンドの芝土手、大好きなレモネードの缶ジュースがある自販機の場所などなど。
「これって、仕事、ですよね」
「ラングラー中佐なら全て記憶しているよ。いないと気がつくのも早くて、気がついたら二十分ぐらいで捜索して、准将を捕獲するかな」
「ボスを捕獲って……」
そんな秘書室、聞いたことない――と、光太の唖然とした顔に、心優は『ほんとに、そうなるんだよ。この隊長室は』と笑ってしまう。
「さらに、ボスの好みも熟知すること。あとよく訪ねてくる上官の好みもね。細川連隊長がきたら、まずコーヒー。でも福留少佐のコーヒー目当てで来るから、トメさんがいたらお父さんに任せて。ミラー大佐はカフェラテ。わりとお砂糖入れるから多めに添えて。たまに准将と紅茶を楽しまれることもあって、お茶の葉の銘柄も詳しいから覚えておいて。コリンズ大佐もコーヒー、ブラック。夏の間はアイスがほとんど。季節の変わり目に確認して。橘大佐は……」
次々と出てきた上官のお好みに、光太が『ひー』と言いながら、急いでメモを始める。
「橘大佐は気まぐれ、いちいち聞いてあげて。城戸大佐はまだ他の大佐より後輩なので、ご自分から望まれることはないから声かけてあげて、元秘書官なので、ご自分の好みより周りに合わせることが多いの。その時一緒にいるお客様の空気を読まれるから、こちらもその都度聞いてあげて。あと、御園大佐はカフェオレ。ご自分で淹れたいという方だし、奥様のご機嫌伺いがほとんどで、短時間でからかって帰るから、飲み物を出してくつろぐことはほとんどなしよ。海野副連隊長は、ブラックコーヒー。こちらも御園とはご家族同然なので、お嬢様の准将とは喧嘩を楽しみにくることがほとんど。どんなに激しい言い合いでも、最後にはきちんと丸く収まるから、間には決して入らないように……」
あと……と、心優はさらに続け、光太は必死にノートに記録をする。
「御園准将はチョコレートが大好きで、冷蔵庫にご自分でお好きなショップのものを持ち込んで常備しているから、午後の中休みとか17時の終業後、残業前のお茶の時には必ず出してあげて」
それから好きなチョコレートのショップは横浜の……、あと、アロマオイルを集めていらっしゃって、空母にも持ち込むから、あとヴァイオリンを持っていて、空母に持っていくのは従兄の右京さんから譲って頂いたもので、御園のお祖母様が孫の右京さんに贈ってくれたというヴァイオリン、それから良く弾かれる曲はこれで、洋楽とクラシックの音楽データをあげるからひと通り聴いて勉強しておいて……。などなども伝える。
「うわー、みてくださいよ。もうノートびっしりになっちゃいましたよ」
「まだまだあるよ」
「ひー、やっぱ准将秘書室ハンパねえっ」
それが秘書官です。ボスの生態を把握すること。さらに念を押すと、光太も諦めたようにして大事なことはメモにまとめている。
「今日はここまでね。明日は護衛部の訓練があるからね」
「はい。俺も、空母に乗るまでに空手の腕を磨いておきたいです」
それを聞いて、心優は今週のうちに自分が空母で遭遇したアクシデントを伝えられるように、ラングラー中佐に許可を取ろう――と心に決めた。
「じゃあ、今日はここまで。お疲れ様」
「お疲れ様です!」
お互いに敬礼をし、帰宅となった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
時間は二十時、官舎に辿り着いて自宅の四階を見上げたが灯りがついていない。
「臣さん。今日もチェンジでシミュレーション演習かな」
今日、御園准将と話し合っていたボーダーライン向こうには絶対に触れてはいけない訓練に熱中しているのだろうと予測した。
それでなくても、この一ヶ月。雅臣が先か、心優が先に帰宅するのか、わからない生活になっている。
暗い自宅に入った心優は、ひとりで灯りをつけ、食事の支度にかかる。
こんな生活に突入してから、週末にお惣菜の作り置きをするようになった。だから食卓の支度は簡単。
作り置きの煮物や小鉢のおかず、簡単なサラダに、焼き魚、白飯に汁物。それを準備し終えて、一人で食べようかなと思った頃に、玄関の鍵が開いた音がする。
「ただいま」
「おかえりなさい、臣さん」
まだ制服のままエプロンをしている心優を見つけて、雅臣がすぐに抱きついてきた。
「なんだよ、それ。制服にエプロンってすげえそそるだろ」
「でも、いまはだめだからね!」
「えー、なんでだよ」
ぐっと顎を掴まれ、彼の目線に連れて行かれ、そのまま強いキスでふさがれる。
でも、心優も……。大きな彼の背中にしがみつくように抱きついて、彼の口の中を熱く愛していた。
あの女の子の、下心ありそうなお菓子。断ってくれたね。妻はアスリートだって堂々と言ってくれて、嬉しかった。
だから、心優も彼を懸命に愛してしまう。
「あれ、心優だってその気だろ。そっちが先でも俺は」
「だめ、早く眠りたいから。明日は護衛部の訓練があるから、体調を整えておきたいの」
そう言うと、雅臣が大人しく引いてくれる。
「そうか。わかった。大事だもんな、護衛部の訓練は」
「臣さんもだよ。きちんと食事を取って、ゆっくり休んで」
『そうしよう』と、お猿さんも素直に諦めてくれた。今は――。
よかった。ふたり揃って食事ができると、テーブルを整える。
「いただきます」
「いただきます」
向きあっての遅い夕食。
「心優がお母さんに教わった作り置きの惣菜、うまいよ。味がしみてきてる」
「うん。メールでいろいろ画像付きのレシピ送ってもらっているんだ」
心優も最近、こんな手料理が楽しくなってきた。旦那さんが美味しいって食べてくれるのって、すっごい幸せなんだなあと。
「吉岡はどうだよ」
「うん。葉月さんも和んでくれているみたい。吉岡君、すっごい航空マニアなんだよ」
「嬉しいな。きっとこれから訓練校の校長室で、パイロット候補生のために一生懸命になってくれそうだな」
「もともと素直だから、どこの部署に連れていっても、可愛がってもらえそうな雰囲気なんだよね」
それは良かったと、自分が選んで御園大佐に勧めただけあって、雅臣も嬉しそうだった。
「とは反対に。御園科長室は、新人の女の子のことで大変そうだったよ」
雅臣が溜め息をついた。
あの、黒髪ロングの女の子のことらしい。
「そうなんだ……」
一応、気のない返事で心優は流そうとした。話してしまえば、雅臣に嫌な話を聞かせてしまいそうで、また心優も悪口になってしまいそうで。夫なのに、言えない。
「親父さんが横須賀司令部にいる幹部なんだってさ。彼女のいままでの上官達に同僚は、司令部の中佐殿のお嬢様ということで無碍に出来なくて、その庇護に安心していた彼女が、いろいろとひっかきまわしていたらしい」
やっぱり、自分の気持ち押し押しの女の子ってことじゃん――と、心優は青ざめる。その彼女が雅臣にロックオンしているじゃない。
「御園大佐のところなら、その庇護も効かないだろうと、まるでなすりつけられるようにして、九月新年度の御園大佐の女性教育枠にぶっこんできたらしいよ」
「御園大佐、よく引き受けたね……。細川連隊長がいつも選抜しているんでしょ。どうして選ばれたのかな」
「俺もそこがわからないところなんだよな。でも、その細川連隊長が引き受けたのだから、御園大佐も文句は言えないよな」
皆が知っている『御園大佐 女性教育枠』。九月の新年度になると、いろいろなツテで選抜されて、御園大佐から直々に教育される研修的配属のこと。いつからか、それが習慣的になっていたとのことだった。
御園大佐が、妻という女性将軍の側近をしていたこと、または同じ四中隊にいた頃に、妻配下の女性隊員を幾人か教育した成果が評価され、連隊長から直々に任されるようになったとも聞かされている。
その御園大佐の女性教育枠に選抜される女の子は、選ばれた時点で『有望株』だという証明になることで有名。それをまた御園大佐が育てて、花形部署に送り出す。御園大佐の科長室で半年から一年ほど教育してもらえたら、エリートコース、またはエリートな男達がいる部署へ行けるともあって、密かに女の子達が憧れている『枠』でもあった。
そこにどうして、彼女が……?
「細川連隊長にお考えがあるのだろうけれど、御園大佐も溜め息ついていたよ。時々『教育目的』ではなくて『矯正目的』で癖のある子がやってくるって」
「その時々な子になるの?」
「みたいだな」
「でも、それじゃあ……」
心優はそこで慌てて口をつぐんだ。『私は憧れの枠に選ばれたのよ』と彼女は思っているに違いない。なるほど、それで御園准将秘書室にいる心優にもあの自信だったのかと納得するしかない。
だけれど、今日、雅臣は『妻はアスリートだから』ときちんと妻として心優を立ててくれた。あの姿を知ったから大丈夫。あの時、大佐殿の顔なのに『妻は――』と言ってくれた臣さん、素敵だったし嬉しかったから。
食事を終えても雅臣は片づけを一緒にしてくれるし、お風呂も準備してくれるし、心優を先に入れてくれる。
ベッドでやっとひと息ついて、彼のシャワーが終わるまで待ちきれずにまどろんでしまう。すうすう気持ちよく眠っていたけれど……。
――心優。
熱い素肌が眠っている心優の背中にひっついてきて、逞しい腕に抱きしめられていた。
うっすらと目を開けると、風呂上がりで汗ばんでいる雅臣にみつめられていた。
「悪い、起こしちゃったか。くっついて眠ろうとしただけだよ」
でも、心優はシャーマナイトの艶めかしい目を見つめたまま、自分から夫の大佐殿に抱きついた。
「心優?」
「だめだよ、わたしが……、だめ……。やっぱり臣さんがほしい」
どうした? 雅臣の大きな手が、心優の額の黒髪をかき上げ、じっと心優の瞳を覗き込む。
「ペンダントと同じ色だ」
彼が婚約に贈ってくれたブラックオパールキャッツアイのペンダント。それが心優の胸元にある。その石を雅臣がつまみながら、心優の瞳と重ねる。
「妖しい猫の目になってる」
「お猿さんが欲しいの」
「そんなに言うと、遠慮しないからな」
「いいよ……、うんと触って、愛して、お願い」
雅臣からの熱いキス。一緒に深く重ねて、息まで愛して、貪って……。そのままお互いに素肌になる。
今夜はもしかすると、心優のほうが激しいかも。求めているかも。煽っているかも? 彼の身体にきつく抱きついて。
「心優、なにかあったのか」
あったよ。臣さんは、大佐殿は、わたしだけのものなんだから! 触らないで! わたしの夫なんだから。心優の言えない心の叫び。
どんなにいい子の顔しても、やっぱり消えない女の気持ち。
だけど、抱いて。愛して。ほら、わたしの気持ち、うんと綺麗になるから。
そう心で唱えながら、夫を愛して、愛されて……。
もう、大丈夫。明日も、貴方の妻として頑張れるから。
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