4.うちの妻に、甘いのいらない


 その話し合いを秘書官は控えて黙って聞いているものだったが、光太は興味津々のようで、すっかり見入っていた。


「心優、お茶をお願い」

「はい」


 白熱する会話で喉が渇いたのか、准将からのご所望。心優もすぐに動き出す。


「准将はアイスティーですか、ミルクティーですか」

「アイスティーよ」

「城戸大佐はアイスコーヒーでしょうか」

「うん、よろしく」


 雅臣も用紙に目線を向けたまま、返答するだけ。心優もそこは邪魔をしないよう、余計なことは挟まない。


 でも……。准将と額をくっつけそうなほどに、今後のことを話し合う大佐殿の目、シャーマナイトの目がきらっとしているのを心優は見る。


 彼はほんとうに大佐殿。そこがどんなに切迫している話し合いでも、責務の大きさで不安になる妻でも、やっぱりかっこいい、セクシーで素敵だなと見惚れてしまう。


「光太。カフェテリアに行って、ドーナツ買ってきて」


 話し合いながら、准将が当たり前のように真顔で指示したのだが。急に雅臣もふっと笑って、緊張の糸がそこで切れた。


「ドーナツって……」

「え、なんかおかしいの? 雅臣……」


 当たり前の顔をしているミセス准将を見て、雅臣がさらに『あはは』と笑い出した。


「こんな侵犯だ、連れて行かれる、こんな攻撃をされたらどう体勢を取ると話し合っているのに。ドーナツ挟まれたんですよっ、緊張がとけちゃいますよ」


「そう? だって甘いもの補給しないと頭が回らないでしょう。あるいは、頭を使うと甘いもの欲しくなるでしょう」


「女の子らしいですね、葉月さんも」


 あの雅臣が、いままでどうにも敵わなかったお姉様に、にやっと男らしい笑みを見せた。


 心優はドキッとする。その顔、御園大佐に似てきた? やり手の女性だって易々と手玉にとれちゃう、男の余裕を見せられた気がした。そう言う時の男ってすっごい色っぽいから、余計にドキッとときめいた。


 さすがの葉月さんも、年下ソニック君に『女の子ですね』と言われ、いつになく頬を染めている。


「からかわないでよ。雅臣はいらないの」


「いりますよ。吉岡、ミセスにはチョコレートがけのオールドファッションと、粉砂糖たっぷりかかったシュガードーナツだ。俺は、オールドファッションでいいよ。園田は、ストロベリーチョコのドーナツだ。吉岡も好きなものを選んできな」


 胸ポケットからスマートに指に挟んだ二つ折りのお札を取り出した雅臣が、それを光太に渡した。


「かしこまりました。ご馳走になります。行ってきます」


 光太がお札を握って、准将室を出て行った。

 准将も緊張がとけたのか、ふっと呆れた顔をしてソファーにゆったりと腰をかけた。


「あら、ご馳走様になっちゃったわね」

「たまには、男らしくさせてくださいよ」


 大人の男の余裕をミセスに見せ始めている。


「さすが、元秘書官ね。私の好みを熟知していること。心優のお好みに関しては、夫としてかしらね」


 今度は、ミセス准将がにんまりとした。そこは、さすがに雅臣も、新婚ゆえにお猿の愛嬌でにっこり照れている。


 またそんなかわいいお猿の照れにも、心優は妻としてどっきりしちゃったから、困ったもの。


 やっぱりまだ初々しい新婚さん。ふたり揃って、葉月さんに笑われてしまった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 17時のラッパが響く終業前、工学科の御園大佐から『またデータが揃ったから取りに来て欲しい』と連絡があり、心優は光太を伴って向かう。

 往く道の途中、心優の横で光太が溜め息をついた。


「どうしたの、吉岡君。疲れた?」

「はあ。浮き沈みが凄いなと思って……」


 浮き沈み? どんなことを感じているの? と問うてみると。


「防衛て大変ですね。俺、いままで広報のかっこいいところしか見ていなかったんだとつくづく思っています。もちろん、防衛を前提にした訓練もすごくかっこいい。でも、そうじゃない。メンタルも体力もめちゃくちゃ極限に置いて、生きているギリギリのところにいるんだって、やっと身近に感じています」


「そうだね。わたしも一年前に来た時はそうだったよ。これから一緒に空母に乗ると余計にかんじるよ。初めて、侵犯措置の本番で、モニターに本物の最北大国のスホーイを見た時は、もう気が遠くなりそうだった。ほんとうに、わたしたちの国の空、ギリギリに攻めてくるんだって」


「俺も目の前にしたらビビると思います。ドキュメンタリーの向こうの映像ですもん、いまはまだ」


 それに――と光太が続ける。


「御園准将の心が、すごく深海みたいで計り知れないです。俺、新人なのに、あの方のおそばに付くのが今の仕事だからと、いろいろと極秘の情報を教えてもらい、目の前にしても……。どうしても近寄りがたいです」


 他愛もないお喋りができていたのに。でも、無理もないかと心優は思う。


「大丈夫だよ。わたしもそうだったから。吉岡君らしく、わたしが知っている吉岡君のままで大丈夫だよ。気負うことがマイナスになって空回りすることもあるから、いまはできることひとつひとつこなしていこう」


「ですよね。今日も……、鈴木少佐を目の前に、どちらを選ぶかなんて。きっと俺、すごいものを目の前にしていたのでしょうね」


 それも確かに。ミセス准将の秘書官だからこその、人知れぬ大事な場面だったと思う。心優ですら、あの鈴木少佐が大人の顔で、女王の貴女じゃないエースの先輩を選ぶという顔を見せた時に、あれだけ荒れていた鈴木少佐も一歩踏み出したんだと、その決別の始まりに泣きそうになったから。


「また今日も、一時間ほど残ってね。わたしとミーティング室で、准将室で必要な情報を伝えるから」


「はい」


 心優がそうして教えてもらってきた『御園秘書室で大事な極秘の情報と、扱い方。護衛官の心得』を、大隊長本部のミーティング室を借りて、一時間ほどそこで、御園准将室にいるために必要な情報を指導している。


 その中には、御園准将が艦を降りる決意をしていること。ご主人の御園大佐はまだそれを知らないこと。降りたその後は、すでに小笠原基地の訓練校校長に就任する人事が決まっていること。これもまだ秘書室から出ていない情報として、口外しないよう念を押していた。


 そろそろ、御園のタブーと御園准将の体質について伝える順序に来ていた。ラングラー中佐からも『これから校長室秘書官として大事なことは、先輩のミユに引き継ぎたいから、いまのうちにミユから伝える練習をしよう』と託されていた。


 そして光太にももうはっきりと伝えている。『貴方は、これから校長に就任する御園准将の、校長秘書室の一員になるために引き抜かれた』のだと。だからそれを見据えて、護衛官としての心構えを整えていくように伝えている。


「今週は、空母に搭乗する護衛官と警備隊のミーティングがあるね。吉岡君も参加だよ」


「はい。空母の警備隊って、特殊部隊並の隊員ばっかりなんですよね。うー、また興奮してきた!」


 いつものかっこいい男達大好きな男の子に戻ったのでほっとした。



 この階段を上がりきり、その角を曲がって少し向こうが工学科科長室。そこまできて、心優は光太と共に階段を上がってそこを曲がろうとした時。


「城戸大佐! よろしかったら、こちらどうぞ!」


 長い黒髪の女性が、工学科科長室から出てきたばかりの雅臣を追いかけている姿を見る。


 心優は何故か一瞬で、階段をあがった角に隠れてしまう。光太も出て行かないよう腕を引っ張り一緒に隠れるようにした。


「え、心優さん。どうして」

「いいから」


 自分でもどうして隠れちゃったのかなと……。でもなんとなく嫌な予感がしていた。


 長い黒髪の女の子は、九月の新年度に、横須賀から御園大佐のもとで例年通りに教育してくれと選ばれて配属されてきた科長室新人だった。


 そっと身を潜めていると、彼女の澄んだ声が聞こえる。


「これ横浜で買ってきたんです。いま吉田大尉にもお土産に。よろしかったら、奥様とどうぞ」


 なかなかぬかりない女子力高そうな新人さんだった。でも心優は、ちょっと警戒している。


 そして雅臣も毎日工学科科長室をデータ入力のために訪ねてくるから、彼女にも毎日会う。どう接していることか。


 お願い、臣さん。受け取らないで!


 それが心優の本心。何故なら、心優より少し若いだけの彼女に『ボサ子さんと結婚すると聞いてびっくりしました。おめでとうございます』と怪しい笑みで言われたことがあり、女として妙なものを感じていたからだった。


 でも。男にはわからないだろうな、あの女子力を駆使した細やかな気遣いの最終目的がなんのためなのか。それが読めずに受け取っちゃうんだろうな……。受け取ったら、心優から彼女にお礼を言わなくちゃいけない。その時、どんな顔をされなにを言われるのか。心優は密かにしゅんとする。


「ありがとう。気持ちだけいただいておくよ」


 ハッと顔を上げる。雅臣が断った声に。


「そうですか……。女性はみなさん、このお菓子、好きだと思うんです」


「申し訳ない。妻は体調管理に気遣うアスリートなので、気持ちだけいただいておくよ。妻にも伝えておく」


「奥様に喜んで頂こうと思って特別に買ってきたんです。……これ、どうしましょう」


 彼女の困り顔に、それをどうすればいいか答えて欲しそうな上目遣い。もう心優ははらはら。


「それは御園科長に渡したらどうだろう。奥様の御園准将が甘いものが大好きなので喜ぶよ」


「え、科長に、ですか」


「御園准将からお礼があるかもしれないよ。おなじ奥様なら、うちの妻より、そちらの奥様の方が喜ぶし、科長も喜ぶと思うから」


 あのお猿さんが。綺麗な女の子に流されないできっぱり断ってくれた姿。でも心優はふっと覗いた瞬間に見た、雅臣の笑顔になにかを見てしまう。


 にっこりとしたあの笑みは、愛嬌の微笑みではなくて、お腹に黒いものを秘めた時の室長時代の、いや大佐殿の笑みだった。


 そして彼女は『御園准将からお礼がある』の言葉に、何故か青ざめているほど。


 あれ、臣さん。もしかして、あの彼女のなにかを感じ取っている?


「残念です……。いつのまにか城戸大佐が結婚されていて。私、ソニックのファンだったのに。こうしてお近づきになれて嬉しいんです」


 彼女が泣きそうな顔で静かに呟いたその言葉にも、雅臣はただにっこり。


「でももうコックピットは降りたからソニックでもなくパイロットでもないから、ご期待には添えないことになるかな。科長室での業務、早く慣れるといいね」


 にっこりしながらも、やんわりと『あなたが興味ある男ではない。応えられない』と否定してくれて心優は泣きそうになる。臣さん、ありがとう……と。


「うわー、露骨だな。新婚さんだってわかっているだろうに、ひでえ」

 光太は心優の中にある嫌な気持ちを汲み取ってくれたようだった。


 御園大佐の工学科科長室に新たに来た綺麗な女の子。その子の言動と行為にも心優は警戒中。


 大佐殿の妻だからとて、油断はできない! も、肝に銘じているところ。

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