90.わたしの青はここに


 その日は、真っ青な空。


 新居のゲストルーム、心優の後ろには黒いスーツ姿の男性が恭しい手つきでドレスの裾を広げてくれている。


 その彼が跪いたまま、ふと開いている窓辺へと視線を馳せた。


「こちらのお宅は、花と緑の薫りが素晴らしいですね」

「ありがとうございます。母がガーデニングが趣味で、いま教わりながらわたしも庭を整えているんです」

「薔薇の香りがします」

「沼津の実家の庭に母が植えていたものを分けてもらいました」


 よろしいことですね――と、あのミスターエドが目元をゆるめて微笑んでくれたので、心優はどきりとする。無表情なばかりだったこの人の表情が最近になって見て取れるようになってきた。


「つわりは大丈夫でしょうか。うちの者が介添えしますので、遠慮無くなんでも申してください。彼女はナースとしての資格を持っておりますからご安心を」


 ミスターエドを静かにアシストしている女性も黒いパンツスーツ姿で、でも年齢は心優ぐらいの若い女性だった。

 彼女のほうが、いつもミスターエドが整えている冷たい顔をしている。上司の手前、笑ったりしないのかもしれないけれど。


「よろしくお願いいたします」

「エリーと申します、よろしくお願いいたします」


 黒髪に青い瞳の女性だったが優しい声だったので安心した。


 


 


 妊娠がわかってから、いろいろと状況は一変した。

 いや、いろいろと迷っていた心優だったが、おなかに子供がいると判って、かえって腹を据えた。


 雅臣もそう、御園准将も、御園大佐もそう。彼等が口を揃えた。『出産してから結婚式の準備をしたらいいではないか』と。そうすると一年向こうになってしまう……。

 生まれたベビーちゃんと一緒に結婚式もいいかもと一瞬思った。いや、違う。いまここだ。心優は思い改めた。


 一年先があるようで、そうではないことを、防衛最前線で知った。夫がギリギリのラインで責任ある職務に就くことを嫌と言うほど味わった。そして自分自身も、もしかしたらあそこで自分が殺されていたかもしれない。もしかしたらあそこでバディの光太が死んでいたかもしれない。もしかしたらミセス准将が懲戒免職になっていたかもしれない。そう思うと、同じような日々が必ず続くとは言い難かった。それが心優のいまの現実。


『いいえ、生まれる前に絶対に式を挙げます』


 ぼやっとしていた結婚式へイメージ。だからこそ、伊豆? 沼津? それとも浜松でする? 横浜で? とやりたいことがとっちらかっていた。

 こうしたいという想いと憧れがあるのに、いざ自分がやることになったら、まったくまとまらなかった。だから日程も決められないし、どこから手を付けていいかわからなかった。


 でも、もう迷わない。心優は決めた。


「臣さん、わたし。ここで結婚式をする」


 小笠原でなるべく移動をしない方向性で出来る範囲の結婚式をすることにした。


 雅臣も気にして聞いてくれた。『本島の綺麗な最新の式場でしたかったのではないか』と。花嫁としてやりたいことは譲らず、子供が産まれてからでもいいんだ――と。


 でも心優は首を振る。


「ここでする。そう、ここだったの。わたしたちの青があるところこだもの」

「青……、俺たちの青か」


 『青』と言っただけで、雅臣にもおなじように響くものがあったようだった。


「心優がそれでいいなら、俺もいい。なにより、お腹の子供に負担がかからないことを考えたら俺もそれがいちばんだと思う」


「お父さんとお母さんにも報告しておくね」


「俺も浜松の家族に言っておく。きっと心優が望んだことなら、どのような式でもうちの家族は喜んでくれるし、すっ飛んでくるよ。小笠原に来られるだなんて、また双子が大騒ぎしそうだな」


 帰還した時に約束どおりに、浜松の城戸家が揃って港に迎えに来てくれた。会うのはその時以来だった。


 港のお出迎えは、心優の両親も一緒だったため、計らずとも、そこで両家が挨拶をするという形になってしまった。


 なによりも二人の母の泣きようが凄かった。恐らく、自分の息子と娘が乗艦していた空母が国籍不明のテロリストのような武装船に襲われそうになったことが大々的に報道されたからだろう。


 心優の母はもう、心優を見ただけで抱きついて泣いてきたし、あの気丈なゴリ母さんですら、息子ではなくて心優に同じように抱きついてきて、母二人に抱きつかれ心優の方が当惑したほどだった。


 しかも双子ちゃんまで『心優さん、怖くなかった?』、『大丈夫だった? 俺たちすげえ心配していた』と泣きつかれちゃって、後ろにいた雅臣が『俺はどうでもいいんかい』とむくれたりしていた。


 しかし雅臣の場合は男親が案じてくれる。こちらは城戸の義父が『よく護った』と静かに労っただけで、雅臣が制帽のつばで目元を隠したほどきわまったものがあったようだった。心優の父も、娘よりも副艦長を勤め上げた婿をまず労った。『大佐殿、ご苦労様でした。お帰りなさいませ』。婿を上官として敬礼にて迎え入れる。そこで父親同士も挨拶をするという形が既に済んでいた。


 そのため、心優が思い描いていた『食事会』はもうやらなくてもいいのではと、妊娠がわかった後に省略することになった。


 少しずつ家族が繋がっていく階段を踏みしめていくしあわせを感じるのも憧れるし、家族もそれを楽しみにしていたけれど、それ以上に『ベビーちゃんがやってくる』喜びがなによりも勝っていた。


 斜向かいの住宅に住むようになった両親も毎日楽しみにしていて、雅臣が浜松に連絡をしても受話器から大きな声と賑やかな声が聞こえてきた。アサ子母は『ドーリーちゃんだけだと大変だから、私がすぐに小笠原に手伝いに行く!!!』とまた火がつきそうになったが、雅臣がここでも改めて『これから仕事しながら子育てをするだろう心優のために、沼津のご両親が小笠原に移住することになった』と伝えると、これで心優が心おきなく小笠原で働けて子育ても出来るだろうと安心してくれたとのことだった。


 そうして、御園准将と御園大佐にも報告すると、すぐに心優が産休まで無理なく働ける体勢を作ってくれた。こちらもご自分の孫ができるかのように喜んでくれた。特に御園大佐。男親としてのなんたらかんたらを毎日雅臣に語ってくれるらしい。妊婦との過ごし方、赤ちゃんの世話の仕方もすでにレクチャーされているとのことだった。


 その後は、御園家の力を借りて、あっという間に式とお祝いパーティーの準備が進んだ。


 式はアメリカキャンプの教会で。ここでは静かに、立会人の御園夫妻と家族だけで行うことにした。その後はアメリカキャンプの集会場、食堂でパーティーをする予定だった。


 

 ミスターエドが腕時計を確認する。


「それではお時間ですね。キャンプに向かいましょう」


 エリーのエスコートで心優は海辺の新居の外に出た。

 夏の暑い陽射しが肌に突き刺したが、すぐにエリーが真っ白なレエスの日傘を心優にかざしてくれる。


「城戸大佐とご家族は一足先に教会に向かわれています。あ、お父様をお呼びしてきますね」


 斜向かいの家も薔薇が咲き誇り揺れていた。両親の新しい住まい。ミスターエドが呼びに行くと、父が黒いスーツ姿で出てきた。


 ミスターエドが準備してくれた車の前で、白いドレス姿で待っている娘と目が合う。


「心優……」

「お父さん……」


 お互いに言葉に詰まった。父の目にもう涙が浮かんでいるのを見てしまったから、心優も泣きそうになる。泣いたら、メイクが崩れちゃうからと心優もぐっと堪えているところ。


「さあ、行くか」

「お願いします、お父さん。あの、」


 よく言うあれを言ったほうがいいかな……と心優は父を見た。


「今日まで育ててくれてありがとうございました」


 ありきたりだけれど、特に……この前の任務では父の言葉や気持ちに生き方が娘としても、仕事の師匠としても身に沁みた。生きて還ることの尊さと厳しさを教えてもらった。


 だけれど父はふっと笑っているだけ。


「十五歳で家を出て行ったけれどな。その道を疑わずに心優という娘が世界を目指して出て行った、その日が父さんがいちばん寂しかった日だ。あの日から、おまえはひとりで頑張っていた。その道を失っても、心優、この小笠原に辿り着いたではないか、雅臣君と一緒に。これからも、雅臣君と行くんだ。父さんと母さんは後ろにいる。安心しろ」


 堪えられない涙がひとすじ、ふたすじ流れる。


「ただ、楽な道を選べなかったな。俺も軍人だ。言っておく。夫が現場にいる時は国民が優先だ、家族はその次だ。しかしその国民の中に家族がいる。だから最前線で踏ん張る夫のことを忘れるな」


「はい。私が夫の家を護ります」


 『よし』。父の目元の涙が乾き、黒目が満足そうに輝いた。なのに、どうしたことか、あのミスターエドが目頭をハンカチで押さえていたのでビックリ。


 嘘でしょ。シドが卵焼きはエドのがいちばんと言った時も涙を流さなかったのに?


 日傘をかざしてくれているエリーが若いながらも、ふっと笑っていた。そして心優の耳元にちらっと囁いてくれる。『実は涙もろい方なんです。心優様のこと気に入ってくださっている証拠。それにもう歳ですしね』なんて、怒られそうなことを言ったのでこれにもびっくりして心優も涙が乾いてしまった。


 海からざっと風が吹いてきて、心優のベールを流した。エリーがなおしてくれる。


「心優様、さあいきましょう」


 ミスターエドの運転でアメリカキャンプをめざす。




 アメリカキャンプに入場して、ミスターエドの車が教会の前に到着する。


 とても静かだった。パーティの時間までは基地の招待客も来ない予定。


 教会の中に入り、式の前に牧師と面会する。これから夫妻として生きていくためのお話を聞いて、それから式に入る。


 その牧師とお話をする小さな部屋の前に、真っ白な正装制服姿の雅臣が待っていた。


 海軍軍人の最高の正装。白と黒の制帽に、金ラインと星がついた黒い肩章。肩からは金モールを提げて、胸元には色とりどりの記章バッジ、白い手袋を握りしめてそこにいる。


「臣さん、お待たせ」


 心優がそう微笑みかけたのに、雅臣はびっくりしたまま固まっていた。


「臣さん……?」


 エリーとミスターエドがすっと会釈をして退き、姿を消した。


 教会の奥のお部屋の前で、二人きりになる。窓辺にはキャンプの金網フェンス、でも向こうが青い珊瑚礁の海。青い空。窓が開いているからさざ波が聞こえてくる。


 とても静かな静かな窓辺で二人きりになっていた。


「心優、ほんとうに綺麗だ。いや、その、そうだとわかっていたんだけれど、想像以上だ」

「わたしも、自分でびっくりしているの。でも嬉しい。こんな綺麗になれるって思っていなかったから」


 雅臣がそっと近づいてくる。海が見える窓辺で、彼がそっと心優のベールに触れた。


「つわり、大丈夫か」


「うん。コルセットをするんだけれど、緩くしてくれたし、……その、わたし、あまり必要ないって言われた」


「だろ。ドーリーだもんな。うちの母さんが楽しみにしていた。はやくドーリーちゃんのドレス姿見たい見たいて」


「双子ちゃんたちもカメラ持って張りきっていたね」


「ああ、朝から大騒ぎで。心優とお腹の子供に負担がかかったらいけないからと、園田のご両親の新居でお世話になったけれど、賑やかだったらしい。俺たち家族の写真をいっぱい撮ると張りきっているてさ」


「浜松のお父さんも、臣さんに結婚のお祝い持ってきていたね」


 園田の家で宿泊していた雅史義父が、あのゆったりとした調子で息子の新居を訪ねてきた。そして『これお祝いだ』と雅臣にプレゼントを置いていった。


 レコードを聴くプレイヤーと、お父さんの大事なコレクションから何枚かを息子に譲るために選んできたとのことだった。


 だけれど雅臣はすごく驚いていた。『父さんの大事なコレクションだろ。いいのかよ』と、だが義父は『子供に聴かせてやってくれ。祖父ちゃんも祖母ちゃんも父ちゃんもママも聴いて、孫も聴く。また浜松でこの曲知っているーと言って欲しいよ。楽しみたいよ』とのことだった。


 音楽が側に育ってきただろう雅臣が感激して『大事にする』とそのレコードを抱きしめていた。


「変わった父さんだけど、あ、母さんも。よろしくな」


「こちらこそ、大魔神の父は厳しいかもしれないし、母は軍のことは疎いけれど、よろしくね」


「頼もしいお父さんだよ。小笠原で一緒に働けて、すぐ目の前に住んでくれて、留守にする時も心強い。心優のお母さんは家を明るく彩ってくれるし、料理が美味い。毎日楽しみだ」


「私も、雅史お父さんの穏やかで優しくて、でも隠している男らしさ好きだよ。それと、アサ子お母さんのこと大好き。頼もしいお姑さん。アサ子お母さんと一緒に陸にいる家族を守っていくから安心して」


 見つめ合う眼差しが熱く、いますぐキスをしたいけれど、神様に誓う前だからお預け。雅臣がおでこにちょんとだけキスをしてくれた。


「お式前の説教は、いらないでしょうかね」


 なかなか部屋に入ってこない新郎新婦を待っていた牧師さんが部屋から出てきていて、窓辺でお互いの家族も大事にすると交わし合っていたふたりを待ちかまえていた。


 式前の牧師様からのお話を聞いて、先に雅臣が式場へと向かった。


 ドレス姿のまま、お話を聞くお部屋のソファーで待っている心優の側にある窓辺からも海。


 わたしたちの『青』、この日にこの『青』が用意されて嬉しかった。きっと忘れない。あの日、御園准将が見せてくれた護るべき『青』も、わたしたちが日常を紡いでいくここの『青』も、わたしたち夫妻の『青』。


「心優様、ご準備整いました。どうぞ」


 介添えでエリーが、白い手袋をしている心優の手をとってエスコートしてくれる。


 教会お堂へ入るそこで、礼服スーツ姿の父が待っていた。


「お父様、お願いいたします」


 心優の白い手が、エリーの手から父へと渡された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る