82.さよなら、ボサ子


 小笠原の早い二月の桜も散ってしまい、三月末。



 冬制服のジャケット姿で心優は横須賀基地のカフェテリア近くを光太と歩いている。


「横須賀基地に出張に来ているというのに、まさかのドーナツ食べたいでしたねえ」


 それでも光太は『准将らしい』と楽しそうに笑っている。


「もう~、長沼准将の大隊長室にお邪魔すると長居になるんだから。適当なところでお話を切り上げさせないと、帰りの便に間に合わないかも」


 心優は懐かしいカフェテリアへとバディと一緒に急ぐ。

 横須賀基地の窓辺には桜の花びらがひらひらと過ぎっていく。そんな季節だった。


「うわー、小笠原の桜が二月に咲いて早かったけど、本島でも咲いて二度も見られるだなんて思わなかった」


 本日は横須賀基地で総司令部の会議があり、御園准将も呼ばれて出席ということで、心優と光太も付き添いでやってきた。


 その会議が無事に終わり、毎度の如く、帰りの時間まで『長沼さんのところでお茶していこう』と葉月さんが言い出し『また俺のところがカフェか』と渋りながらも、コーストガード襲撃事件のことを聞きたくてうずうずしている長沼准将の大隊長室にお邪魔させてもらうことに。


 窓辺の空を仰ぐ光太を側に、心優はドーナツの種類を書いたメモを再確認。


「長沼准将まで食べたいとか、塚田中佐の秘書室にも差し入れって……。あのお兄さんたち甘いもの食べないのに……。もう売り切れるころだよね。わたしが横須賀にいる時はそうだったんだよね。いまはどうかな」


「そっか。心優さんにとっては横須賀も古巣なんですよね」


「浜松基地もわたしには古巣だけれど、ここ横須賀は秘書官としてスタートした場所だからね」


「で、城戸大佐とー、運命の出会いをした場所ってことですね~」


 にやにやする光太に心優もちょっと頬が熱くなる。


 そういえばそうだった……と。あの『面接』から、もう三年が経とうとしている。


 カフェテリアの入口に辿り着くその手前、心優は懐かしい人と鉢合わせをする。


「黒帯ちゃん!」


 うわ、最悪。業務隊の井上少佐が目の前に。


 雅臣が秘書室長だった時に、秘書室の情報を探るために新人で疎い心優にちょっかいをだしてきたり、意地悪を言われたり、さらには雅臣の元カノさん現塚田中佐の奥様も利用して捨てたという嫌な男。


 しかも未だに黒帯ちゃんとは馴れ馴れしい。そんな心優の反応も、向こうの軽い態度もすぐに感じ取ったのか、光太の顔も強ばっている。


「あれあれあれ~。もう後輩がついちゃってんの。さすがだねー。二年ですごいとこに行っちゃったね~」

「ご無沙汰しております。申し訳ありません。いま准将のお遣いで先を急いでおります」


 でも以前通り。井上少佐は意味ありげな意地悪い笑みで、心優の前に立ちはだかった。


「でもさ、そのボス。ついにやっちゃいけないことやっちゃって大変だったらしいね。とうとう大隊長を解任ってことじゃないか。なんだって、今月からわけのわからない『飛行部隊対策室』とかいう、秘書官三名、事務官五名の小さな小さな新設部署に追いやられたんだってね。それって左遷ってことじゃないのー」


 相変わらずムカツク言い方。でも心優はもう動じない。新人秘書官だった時はこの少佐のほうが情報に精通していた。でもいまは……、こんな男。だから心優は表情を変えずに答える。


「さようでござますね。わたしは准将のお付きのままで良かったと思っているところです」

「大佐の奥様になると余裕だね~いいね~ミユちゃんは恵まれているよ」


 と変わらぬ調子だった男の目つきが変わった。いつにない真剣な男の眼だった。


「でさ。王子とかいうパイロットの情報が欲しいんだよ」


 業務隊の男は情報通。なんとかして情報をかき集め、それを業務にまたは個人の出世の手だてにする。この男はそうして生きている。


 でも心優はふっと笑う。そうか、この男より情報を持つ立場になれたんだ……と。だからこの男が心優を『かわいい黒帯ちゃん』とからかう目ではなくなった。


「知りません。もっと上の方がご存じだと思います」

「嘘だ。目の前で見ただろ、会ったんだろ。今回も接触したんだろう。いちばん接触しただろう御園准将の側にずっといたのは黒帯ちゃんだ。知らないはずがない」


 思いの外、必死の顔だった。以前だったら……、秘書室長であるラングラー中佐の許可がなければ、心優のような下っ端護衛官はなにも反応してはいけないと言いつけられていた。


 でも、いまなら。心優は『もしかして』と思って、ちょっとかまをかける。


「どちらの方が王子とやらのことを知りたがっているのですか」


 案の定、あの井上少佐が目線を逸らした。『お近づきになっておきたい上官から依頼されているんだ』と心優は感じ取った。


 それに気がついた心優にも、井上少佐は警戒しだした。つまり『もう黒帯ちゃんなどと油断してはならない』という目だった。


「言えば、教えてくれるのか」

「残念ながら、なにも存じません。申し訳ありません、准将のお遣いの途中ですから失礼します」

「次に西南海域に巡回任務に指名されるだろう艦長クラスの指揮官だ。王子について様子がわからず、どう防衛をすればよいか迷っていらっしゃる。聞けば、王子とか言うパイロットは向こうの国の司令官の息子で、接触には気を遣うとか遣わないとかで任命前から神経をすり減らしている」

「どちらの方なのですか」


 はっきりその指揮官の名を教えてくれたら、少しばかりぼかした情報を与えてもいいだろうかと心優は判断した。


 井上少佐の目がますます真剣味を帯びる。態度も神妙で、これこそ手練れの業務隊員ではないかと見直したほどだった。


 でも、言えそうにないのか言いあぐねている。

 ならばと心優から言ってみる。


「わたしに聞くぐらいです。御園とは離れている大佐か准将ということですよね。となればだいたい目星がつきます」


 井上少佐がはっとした顔になる。的中だった。


 城戸秘書室に配属された三年前、心優はこの男に『ボサ子』とからかわられ『黒帯ちゃん』と軽く呼ばれ、挙げ句に『秘書室のお人形ちゃん』とまで言われた。


 雅臣の下で一年、御園准将の側で二年。命がけの任務と、ミセス准将や御園大佐、そして橘大佐に夫の城戸大佐を側に『彼等のプライド』を見せつけられる日々だった。


 もうあの頃のわたしではない。その男がそれを思い知った顔をしている。


「それに艦長に任命されれば、今回起きたコーストガード襲撃事件の情報も対策として上から情報いただけると思いますよ」

「だから『引き受けて後に知れる情報』としてではなく、『引き受ける前に知りたい情報』なんだよ。引き受けないと詳細は教えてくれないわけだろ」


 引き受けてしまったらその重責を背負った航海をしなくてはならない。コーストガード襲撃事件の詳細も任務を引き受けないと知らされない。引き受ける前に知りたい。リスクが大きければ断りたい。その判断材料が欲しいということらしい。


 そんなもの、心優の知ったことではない。うちの御園准将はそれを引き受けて、あの重責の中……、耐えてきたんだから。判断材料なんて、葉月さんにはなかった。


 でも。艦長という指揮官になる幹部の不安もわかる。派閥なんて関係なく、防衛の情報を対策として報せたいという気持ちもある。迷う、迷うならば『言わない』。


「知ってる顔、だよな。艦長の護衛だもんな」

「それでは、失礼いたします」

「待って、黒帯……、いや園田中尉」


 慌てた少佐が胸ポケットから小さな手帳を出して、走り書きを始める。


「これ、これをやるよ」


 向こうからなにかを差し出してきた。

 やはり警戒する。ここでこの男に迷いや躊躇を見せたくなかったが出てしまう。そんな心優の隣から長い腕が伸びた。


「いただきます」


 光太だった。井上少佐からメモ書きを受け取る。


「これ、こちら御園准将側でどうしても構わないってことですよね」

「もちろん。甘く見ないで欲しい。こっちも常日頃、駆け引き三昧なんでね。いつでも『手土産』は準備しているんだよ。でも、ミセス准将に届くことも考えただけのものだ。馬鹿にはしていない」

「有り難く頂きます。中尉に預けますね」


 光太がさっと心優にそのメモ書きを渡した。

 心優も受け取り、その情報をさっと眺める。三つほど書かれていて……。心優は驚き、すぐにそのメモ用紙を胸ポケットにしまう。


「ミユちゃん、悪かったよ。いままで……。それ手土産として準備しているものだから、今回は見返りはいらない。じゃあな」


 でもまた何かあれば駆け引きしよう――。男の目線を初めて向けられ、敬礼までされた。


 心優を、わたしを軍人として認めてくれた。


「あの、」


 去っていくその男が立ち止まる。


「王子にはまだ御園准将が海にいると思わせておいたほうがよろしいかと思います。彼は御園准将だからこそ、領空線で対等になってくれるんです」


 井上少佐が振り返った。


「辞めたとまだ知らないってわけか」

「わかりません。もう……、あちらの国にこちらの人事も知れ渡っているかもしれません」


 心優の隣にいた光太も付け加える。


「白い戦闘機の艦隊ではないとわかれば、荒っぽいことをしてくると思います。御園准将や高須賀准将のような押し気味の航海もリスクがあるでしょうが、引きすぎるとあちらに甘く見られ、以前より頻繁に侵犯をしかけてくると思います。難しいと思いますがそのバランスがこれから必要だと思いますので、御園准将の航路を参考に少し引き気味航路で行かれるとよろしいかと思います」


 下っ端護衛官の若い二人の言葉を、井上少佐はすらすらと手帳に記している。


 心優も最後に付け加える。


「王子も御園准将もおなじです。彼には彼の国の正義があれど、コーストガードや空母を襲撃して手柄を得ようとする卑怯なやり方はしません。その代わり、こちらも歴とした態度を見せないと踏む込む勢いは持っています。こちらはこちらの正義を断固示す、御園准将はそうしていました。王子はそのように歴とした態度で挑んでくれる御園准将を信頼しているように見えました。後の艦長にもおなじ志を示して頂きたいです」


「サンキュ、これでこの方は引き受けると思うよ。そちらの艦長が引退してから、次の艦長がなかなか決まらないんだってさ。そりゃそうだ。西南海域の防衛がどれだけ厳しいものか、責任重大な任務になってしまったからな」


 さらに井上少佐は続けた。


「正直、そちらのミセス艦長を引退させたのは失策だと思うよ。ま、そうなるよう望んでいたおっさんたちがいたみたいだけれど? 彼女におっかぶせていた重責の火の粉が飛んできちまって、いま自分達の配下の艦長指揮官に指名が集中して大慌てみたいだよ」


 そういうのも准将に伝えちゃっていいよと井上少佐は笑いながら去っていった。


 あの意地悪な少佐がこんなに情報を落としていってくれて、心優は呆然。ああ、やっぱり。あちらの少佐が一枚上手だったかも。それだけの情報収集力があるということだった。


「わたし……。あの少佐にめちゃくちゃ意地悪されていたんだよね」

「え、そうなんですか? 心優さんにお願い、これからもよろしく頼りにしているって顔だったじゃないですか」

「ううん。新人だと甘く見られてすっごくいじめられていたの」


 でも、心優はもうにっこり笑っていた。

 わたしはもうボサ子じゃないんだと。


「ところで心優さん。さきほど頂いた情報すごくないですか。あれが見返りナシの手土産て、あの少佐すごいですよ」

「うーん、あまり関わりたくない人と思っていたけれど、どうしようかな。この情報もどうしよう」

「准将に渡せばいいではないですか。あ、待てよ。御園准将に渡すと、即発射でなんかやりそうで怖いな」


 そのとおり。光太もすっかりミセス准将の性質をわかっていて頼もしい。


「どうしようかしら。ラングラー中佐に渡したらいいのかな。でも、大隊長室のための情報ではないし……」

「御園大佐も無理ですよね……」

「そうだね。もう以前のように自由にされていた工学科科長ではないものね」

「どうでしょう。ここは一旦、福留少佐に見せて相談するのは。福留さんならどこに見せれば有効か判断してくれると思います」


 光太の意見に心優も頷く。


「そうしましょう。福留さんなら、准将に直に見せる、ラングラー中佐に渡せばなんとかしてくれる、そうでなければどうすると決めてくれるよね」


 大隊長秘書室から一緒に異動した福留少佐も、いまは心優たちと同じ『対策室』にいる。若い隊員で配属された中、年長者としてまた『お父さん』としてミセス准将の側に置かれることになった。


 ドーナツを買う時も、まったく知らない隊員、顔見知りだった隊員、たくさんの人に声を掛けられた。


 お遣いを終え、長沼大隊長室へ戻る。


「御園准将がカフェテリアではなくて、長沼准将の大隊長室でお茶をしたいという気持ち、俺もちょっとわかっちゃったかなー」

「そうだね。落ち着かなかったね」


 いままではラングラー中佐にハワード少佐がいてくれて、ボスへの目線の気配りをしてくれていた。


 これから暫くは、心優と光太がやらなくてはならない。

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