75.妻と夫が通じるとき

 溜まっている艦長室業務を光太とせっせと片づける。

 ミセス艦長もすっかり元通り。艦長デスクに座って、パソコンのモニターと睨めっこ。マウスを持って各所確認に忙しそうだった。


「心優、これを指令室へ持っていって」


 受け取って艦長室から指令室へと向かう。指令室には福留少佐とコナー少佐の二人がいるだけだったが、こちらも忙しそう。


「そのまま、管制室の大佐に持っていって」


 コナー少佐に言われ、今度は管制室へ。そのドアを開け、通路に出る。静かなその通路を心優は奥まで見つめる。


 数日前、ここで戦った。なのにいまその通路は日常を取り戻し、もう禍々しさは消えている。


「くっそ、そういうことだったのか。全貌が見えた!」


 もの凄く悔しそうに言い捨てながら、御園大佐が廊下を歩いていた。

 しかも雅臣と一緒に歩いている。長身のお二人だけれど、雅臣のほうが背が高い。御園大佐を見下ろして、ご機嫌を伺っている。


「まあ、落ち着いてくださいよ。隼人さん」

「雅臣君まで知っていたなんて、」


 そこでお二人が管制室の前にいる心優に気がついた。


「てことは、園田から聞いたってことか。園田、いつ、いつ、あんな『校長内定』なんてなっていたんだ」


 うわ、すっごい感情的になってる? あの御園大佐が『妻にやられた』という悔しさを滲ませている顔。これは下手な返答をしたら心優にもとばっちりが来そう。


「えっと、あの、奥様にお聞きください」


 これがいちばんに決まっている。御園大佐がこうなったら中和剤なんてないんだから。


「そうかそうか。だから、アグレッサー部隊を結成すると言いだしたんだな。訓練校の中に『現役パイロットの訓練機関』を作れると見定めていたわけだ」


 心優はただただ黙って、なにも返答しなかった。そういう静かな心優を見て、どうしてか御園大佐の勢いが緩んだ。


「なんだよ……。俺がまるで苦しめてきたみたいだな。艦長を頑張れ、辞めるな、なんとかなるって」


 そう彼が怒っているのはきっとそこ。心優にはわかる。葉月さんは『夫は完璧なサポートがあれば、辞めなくても頑張れると思っている。辞めると言えば、サポートのレベルをアップすることに躍起になる。そうではない。私は退きたいのだ』と思っていてるのに対し、ご主人の隼人さんは『そんなに苦しいのならば、辞めたらいい。おまえ次第だ』と考えていることが通じていない。


 その双方の気持ちに気がついていたのは、御園大佐が心優にだけ憂う姿を見せてくれていたから。だからこそ、伝えられなかった、葉月さんに。そこはまた夫妻の問題だと思ったからだった。


「申し訳ありません。わたし、御園大佐がそう思っていると気がついていたのに。奥様にさりげなく伝えることができませんでした」


 御園大佐が驚いた顔をした。そして急にバツが悪そうに黒髪をかいて口ごもる。


「いや、別に……。園田になんとかしてもらうなんて、申し訳なさすぎる。そうだな……、俺と葉月の問題だ。ありがとう」


 そういうとすぐに艦長室へと御園大佐が向かう。


「しばらく、二人きりにしてくれ」

「かしこまりました」


 心優がそう答えると、御園大佐が艦長室へと入っていった。

 目の前に、雅臣が取り残された。彼も心配そうな顔になっている。


「城戸大佐。こちら艦長室と指令室のサイン頂いています。確認をお願いします」

「あ、ああ。ありがとう」


 クリアファイルに挟んでいる書類を手渡した。まだ戻ってきて数時間、どちらも多忙を極めて姿を見たり見なくなったりだった。


「とうとう隼人さんに知れるところになったか」


「そうだね。艦長を退く――というのは、自然な流れになってしまったけれど、『辞める準備をしていた。辛かった』という言葉がショックだったみたいだね」


「いまそこの休憩ブースで隼人さんの文句を聞いていたんだけれど、それならそうとどうして言ってくれなかったとぼやいていた」


 だよね。でも……と心優は思うところが。


「言えないよ。夫と妻でも、違う仕事をしている指揮官同士だもの。夫だからこそ気遣いが申し訳ない時もある。妻だからこそ、心配しすぎて邪魔をしてしまうかもしれない」


「俺たちだってそうだもんな」


「うん……。臣さんがわたしにも言えないことがあるのはわかってるよ」


「俺もだよ」


 ふと気がつくと雅臣が潤んだ目で見つめてくれていた。心優もどきっとときめいた。離れていた分、すぐ抱きつきたくなって困る。


 そんな甘い雰囲気の中、目の前の艦長室のドアが開いて光太が出てきた。


「ひい、追い出された」


 御園大佐が奥様に突撃、『二人きりにしてくれ』と言っていたから、そこに残っていた光太が追い出されたということらしい。


「しばらく戻れないね。一緒にカフェテリアで時間でも潰す?」


 心優も秘書官の顔に戻す。雅臣も副艦長の顔に戻っていた。


「そうだな。俺が許可したことにしてやるから、二人でカフェで時間でも潰してきな。一時間後に戻っておいで。大丈夫。長く夫婦をやってきたお二人なんだからそっとしときな」


 上官の凛々しい顔で言うと、心優が渡した書類片手に管制室へ行ってしまった。


「あれ、もしかして俺。こちらでもお邪魔でした?」

「そんなわけないでしょ。業務中なんだから」


 事務作業に行き詰まっていたからちょうどいい休憩として、光太と一緒にカフェテリアでお茶をすることにした。


 ブリッジの通路を歩きながら、心優も光太に聞いてみる。


「どうだった。隼人さん。すごく怒ってた?」


「いいえ。二人きりで話したいと大佐が言われたけれど、葉月さんは『今は話したくない』てつっぱねて。そうしたら、隼人さんが『俺は話したい。今でなければもうこのことについては一生問わない。俺の中で棘が刺さったままにしてやる』て言ってましたね。怒っていない言い方でしたけど、怖かったですよー。二人きりにしてくれと俺に向けた大佐の目が見たことない目で怖かったですよ」


「うわー、わかるわ……。私、初めて御園大佐に会った時、すごい怖い旦那様だったもの。葉月さん、その時も隼人さんの意志と心配を無碍にした行動をしてね。あのミセス准将を平手打ち、葉月さんがすごい怒られたの見ちゃったから」


「あのギリギリの決断をしたミセス准将を、静かな迫力で口答えができない程に押し切る男。うん、さすが旦那様」


 うん、まさにそのとおりと心優も強く頷く。



 しかしカフェテリアに行ったら行ったでまた心優と光太は隊員達に囲まれた。


 『お帰りなさい』から『大変だったね』とか、光太は艦長を命がけで護ったことや麻酔銃を撃たれたことまで知れ渡っていて『すごい』とか『もう大丈夫なのか』と男性隊員達にもみくちゃにされてしまう。


 一時間があっという間に過ぎる。『もう~、休んだ気がしない』と光太がゲンナリしている状態で艦長室に戻った。


 さて。一時間程度でご夫妻は収まってくれたのだろうか。緊張しながら艦長室ドアをノックしてから入室した。


「おかえりなさい」


 御園准将のデスクにはいつもどおりに彼女が、でもそのすぐ隣に光太の椅子を借りて座っている御園大佐もいた。


 もう二人ともくっつきそうに寄り添って、奥様が開いている新聞を一緒に覗き込んでいる。横須賀基地司令部で拘束されていた間に、山口女史が届けてくれた新聞を持ってきたようだった。


「そっちの新聞も読んでもいいか」

「どうぞ」


「おー、すごい騒ぎだな。おまえが拘束されていた五日間、一面がずっとコーストガード襲撃事件じゃないか」


「そうなの。でもどこにもフランカーが爆撃したことは出ていないわけ。その方向で艦内も周知しておいて欲しいの。ネイビーメールで家族に言わないようにね」


「既にそこは周知してあるが、改めて徹底しておこう」

「あ、そうそう。ここも読んでおいて。この評論家のコラムね」


 どれどれ。奥様が開いた新聞へと旦那様が顔を近づけて密着状態。仕事の話をしているようで、結局、夫妻の雰囲気。仕事の話をしているのに……、なんですかそのちょーっと甘い密着ぐあい。


 光太がまたこっそり『ラブラブじゃないっすか』と呆れたほど。なのにさすがは吉岡光太、そこですぐさまにっこり微笑む。


「艦長はお紅茶で、『旦那様』はカフェオレでよろしいですか」


 ワザと旦那様と言ったんだとわかって、光太のそんな大胆な言い方に心優はびっくりする。


「私もカフェオレでいいわよ」

「俺もミルクティーでいいよ」


 お二人が同時に言った。そして顔を見合わせるお二人。


「どちらなんでしょう」


 光太がさらにからかうようににっこり。


「ええっと。ミルクティーで頼む」


 隼人さんが決めた。そして葉月さんは恥ずかしそうにして開いた新聞の影に隠れてしまった。


 若い護衛官の二人に、うっかり仲直りした甘い空気を知られたと、やっと気がついたようだった。


 でも光太と一緒に指令室の給湯でお茶を入れながら『心配なんていらなかった』と笑ってしまった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


 艦は少しだけ北上し停泊中。現在は緊急発進のアラート待機も解除されている状態。


 明日、いよいよ調査団が横須賀へ帰るとのことだった。


 西南の空に星、とっぷりと紺碧の夜空に艦は包まれる。

 久しぶりの業務も二十一時でひと区切り。艦長が『今日はお終いにしましょう』と言った。


「今夜は指令室にアドルフがいるから、二人は休んでいいわよ。数日間、横須賀で私との生活、お疲れ様。一緒に来てくれて助かったわ。言ってはいけないけど、それはそれで楽しかったわよ」


 心優と光太も『自分達もです』と微笑み返した。


「光太、お薬飲みなさいよ。それから……、あなたの音楽プレイヤーに入っていたいくつかの曲名、あとで教えて」


「お気に召した曲があったんですね。では後で持ってきます。しばらくお貸ししますから、曲名を抜粋してください」


「心優には女同士のお話があるの」


 そういうと、気の利く光太はそこで『お疲れ様でした』と退室をした。

 心優と御園准将の二人きりになる。


「心優、あなたも今夜はゆっくり眠りなさい。横須賀で夜も気を張っていたでしょう」


「艦長こそ。あまり眠れていないようでしたね」


「私はいつもそうよ。慣れないところや、気が抜けない場所では目が冴えてしまうの」


「発作が起きるのではないかと心配で……」


「大丈夫だったでしょう。でも、ありがとう。だから、あなたも今夜はゆっくり眠りなさい」


 艦長は――と聞こうとした時だった。


「お疲れー。吉岡が出てきたからそろそろかと思って。チョコレート、きちんと取っておいたからな」


 御園大佐が入ってきた。


「彼と積もる話があるの。二人きりにして」


 そういうことなら――と安心して、心優は眼鏡の大佐に『あとをよろしくお願いします』と託し、遠慮なく一人部屋に入った。




 確かに、やっとひとりになって、ほっとできたような気がする。


 葉月さんと光太といるのは苦痛ではないけれど、数日間ずっと一緒だった。


「はあ、なんだか落ち着く」


 おかしいな。むこうが陸にあって警備も整っている基地の中だったのに。揺れないベッドだったのに。こちら海上に浮かぶ空母の小部屋が落ち着くだなんて。


 もう警戒警備もない。スクランブルもない。心優はジャケットを脱いで放る。タンクトップ姿になって、ベッドに腰を掛け、掛け紐のブーツも脱いた。


 そのままベッドに寝そべり、丸窓も空かした。潮の匂い、エンジンの匂い、波の音。そして星空。わたしの部屋。


 よかった。生きてここにいられた。よかった。

 胸張って、帰ってもいいかな。お父さんのところに。

 艦長を護ったよ。不審な男も制圧したよ。

 夫よりも艦長の側にいることを選んだよ。

 お父さん、これで良かったんだよね。


 少し涙が滲んだ。


 そんな時に、ドアからノックの音。もう今夜は艦長の気遣いで誰も来ないだろうと思っていたから、心優は慌てて紺のジャケットを肩に羽織った。


「お疲れ、俺――」


 臣さん!? 声だけで夫とわかった心優は迷わずにドアを開けた。

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