40.王子は彼女を待っている
なんとなく不穏な空気が漂い始めた航海の夜。
この晩、21時が過ぎた頃に、久しぶりに御園艦長がヴァイオリンを構えた。構えたが調律をするような音合わせだけで終えた。
なんだか空気が湿っている――と言いながら、肩に構えたヴァイオリンに
光太はミセスのヴァイオリン姿は初めて見るので、ちょっと嬉しそうに目を輝かせていたが、心優としては微笑ましいという気持ちにはなれない。
ミセスが音楽を奏でる時はどこか心を洗っていたり、あるいは、とても気分が良くて透き通っている時にやっているように思える。
そして。決して心優が見ることはないだろう『蒼い月の儀式』だけが、彼女の心の奥底にある本物を携えて弾いているのだと思う。ご主人の御園大佐があの夜明けに教えてくれたように……。自分を呪った男『幽霊』はもういないと、私の蒼い月が見える消えていく、夜が明ける。御園葉月という人間と、その夫が見守ることが出来る儀式の音はどのようなものなのだろうか。
今夜のミセス准将の音は、そこに辿り着けなくてもどかしさを表している気がした。
「少し、休むわ」
少しだけ音を奏でるとすぐにヴァイオリンはケースにしまわれ、ミセス准将自ら、奥にあるベッドルームへと消えてしまった。
――違う。以前とは違う。
あんなに眠ろうとしなかった御園艦長だったのに、今回は自ら休める時は休もうとリズムをきちんと取っている。
艦長室に残された心優と光太は顔を見合わせる。
「あの、眠らない……と聞いていたけれど、違うみたいですね?」
「前の航海ではそこの椅子から離れようとしなかったんだけれどね……。でもいいのよ。眠ってくれたほうが、少しでもそうしてくれたほうが」
そして心優もわかっていた。いままでは『いつ敵がくるかわからない』から気を張っていたのに対し、今回は決戦の場がわかっているから、それに備えているのだと。
光太と二人きりになった艦長室で仮眠前の事務処理。既に本日のブリーフィングがアップされている部署のものをダウンロードしておく。
「心優さん。今夜は俺が当番なのでお部屋で休まれていていいですよ」
「そう? ではお願いするね」
艦内業務も光太はすぐに慣れて、心優が不在の艦長室護衛もこなしてくれるようになっていた。
ひとり、静かな小部屋に入る。ドアを閉めると、さざ波の音に甲板で作業をしている音。海域はまだ駿河湾沖。
業務から離れ、一人きりになるとやはりほっとする。紺の上着を脱いで、心優はそのままベッドに横になる。
丸窓から夜空が見える。それが心優のいまの安らぎ……。
「ホットスクランブルがない」
北回りの時はすぐにあったのに。今回はまだなかった。とても静かな航海の始まり。それがなんだか怖い。
この静かな海の向こうに、大きな空母艦がスホーイが待ちかまえていることだけがわかっている。
ふっと心優はすぐに眠りに落ちた。
アラームの音
腕時計にセットしていたアラームが鳴ったので、心優は目覚める。
すぐに起きあがり、紺の上着を羽織り直して部屋を出る。
「吉岡君、交代の時間……」
艦長室に戻ると、珈琲の香り。
「おう、園田。お疲れ」
御園大佐がまたソファーを占領して、宵っ張りのお仕事をしていた。しかも。
「眠れたのか、心優」
雅臣までそこにいた。光太と福留少佐が大佐殿ふたりに珈琲を配っているところ。
福留少佐が、いつも秘書室でそうしているように心優ににっこりと微笑みかける。
「園田さんもどうかな。目覚めの一杯を。いまから、管制室クルーにも紙コップに一杯ずつ淹れようかと思っていたところなんだよ」
みんなのお父さんみたいに慕われている少佐がいるだけで、空気がとても和む。今回は御園お嬢様を優しくなだめるお父様分で配置されたのではと皆が囁いているのを心優も聞いている。
「お手伝いいたしましょうか。そのうちの一杯をいただきます」
「ほんと。助かるな」
「今夜はトメさんが指令室の日直なんですね」
「そう~。久しぶりの日直だよ。もうこの歳で夜勤をするとは思わなかったけれど、基地とは違って、隼人君やソニックとお話ができて楽しかった」
どうやら男同士で談話して楽しんでいたようだった。『ではクルーの分を準備してきます』と福留少佐は嬉しそうにして出て行った。
そして心優はいま出てきた自分の部屋がある通路へと振り返る。自分の小部屋の隣は、艦長のプライベートルーム。
「艦長はまだおやすみのようですね」
ほんとうに休まれているようだったが、信じがたい。ただ眠っているかは確かではなかった。
「東シナ海についたら、眠らなくなるんだろ。休ませておいてくれ。あとで俺が見てくる」
御園大佐が珈琲を味わいながら、夜の闇のままの丸窓を遠く見つめている。この人が配置されたからこそ、誰もが艦長には言いにくいことを思いっきり突きつけてくれるし、艦長も安心して出航したばかりの夜も休んでくれる。
いまは英気を養う時――。御園大佐はそういいたそうにして、黙って珈琲を飲んでいる。
艦長室からノックの音、ドアが開くと金髪のシドが黒い戦闘服姿で現れた。
「失礼いたします。御園大佐はいらっしゃいますか」
「ああ、シド。どうした」
「警備についてお聞きしたいことがあります、指令室までよろしいですか」
「わかった。そっちに行く」
ひさしぶりにシドに会う。せっかく同じブリッジセクションに配属されたのに、出航してからのシドは警備のため外に出ていることが多くなかなか顔を合わせられなくなっていた。
結局、前回の任務と同じで、シドの行動が極秘にされているかされていないかの違いだけで、今回はシドも配属隊員としておおっぴらに空母の中を顔を出して歩けるけれど、指令室に留まっていることはほとんどない。
おそらく金原警備隊長と諸星少佐と連携をして、シドがブリッジの警備を受け持っているのだと心優は思っている。
そんなシドがちらっとだけ肩越しに心優を見てくれた。真顔だけれど軽い敬礼をして、御園大佐と出て行った。
それを光太に見られていた。
「絶対に心優さんを見逃しませんよね~」
「もう、いいから。吉岡君も仮眠に入っていいよ」
「そうすっか。では、ご夫妻のお邪魔になりそうなので、おやすみなさいませ~」
「もういいからっ」
からかう後輩を艦長室から追い出した。
ほんとうに雅臣と二人きりになった。大佐殿はひとり座っているソファーでゆったり珈琲を飲んでいる。
「お疲れ様です、城戸大佐」
「あはは。もういいよ。こんな夜中なんだから。いまも男同士、仕事抜きで盛り上がっていたんだからさ」
その雅臣が『おいで』とソファーの隣に座るように心優を誘ってきた。
「でも、福留さんのお手伝いをしたいから」
「家を出てからゆっくり話していない」
お猿さんが急に寂しそうな顔をしたから、任務中だけれど、私情かもしれないけれどと思いつつも、心優は負けてしまう。
ついに久しぶりの旦那様の隣に座る。その途端、お猿さんのたくましい腕がぐっと心優の肩を抱き寄せた。
「心優、やっと心優の匂いがそばに来た」
「お、臣さん」
それでもここは艦長室。自分のボスのテリトリーだからさすがにお猿さんは悪さはしなかった。ただぎゅっとそばに抱きしめてくれただけ。それでも心優もきゅんと切なくなる。
「わたしより早く官舎を出て行っちゃって……。あのあと寂しかったよ。でも出航準備、ご苦労様でした」
「うん。すげえ大変だった。でも心優が乗船してこの艦長室に来て顔を見られた時にそんな疲れがぶっとんだ。やっぱり俺にとって心優は絶大だよ。でも……本当だったら、ここに妻が一緒にいるのは安心できることではないんだよな」
雅臣の手が心優の左手を握った。彼が見つめているのは、薬指にある銀色のリング。わたしたちの結婚指輪。
「我が侭だけれど。新婚の妻を心優を置いて航海なんて、かえって集中できなかったかもしれない。こうして心優がいるだけで俺は……」
そんな顔しないで。お猿さん。心優は寂しそうにしてくれる夫の頬にちょっとだけキスをしていた。
「え、心優……、なんかすげえ、俺、嬉しいんだけどっ」
お猿の目がきらっと光った。心優は慌てて、目の前にいる大きなお猿の胸を押し返す。
「ダメだからね、ちょっとだけなんだから」
「わかってるよ。でもさ、すげえ、嬉しい! めっちゃ嬉しい!」
いつまでも心優がキスした頬に触れてきらきらした目で嬉しそうにしてくれて、心優もやっと笑顔になれる。
副艦長に就任して、出航準備、そしてこれからスクランブル指令に構えアラート待機をしていなくてはならない。その指揮が全て、今回は雅臣にかかってくる。
そんなお猿さんを心優も抱きしめたい、濃密なキスをしたい、一緒に眠りたい。でもいまは……。それでも心優を抱き寄せてくつろいでくれるだけでも嬉しい。
「また時間を見つけて、人が少ない時間帯にゆっくり話そう。食事も一緒に行きたいな。いま御園大佐もそうしてもいいと許可をくれたんだ」
「ほんとに。嬉しい。臣さんとカフェに行ってみたいと思っていたんだ」
雅臣が心優の黒髪を撫でてくれる。
心優はにっこり微笑むと雅臣もお猿の笑顔を滲ませてくれる。でも、やっぱりちょっと疲れているかなとシャーマナイトの目を見て感じる。
「心優も珈琲をもらってこいよ。噂通りにほんっとに美味いな、福留さんの珈琲」
「では、クルー分のお手伝いしてきますね」
名残惜しいまま、でも雅臣も心優も気持ちを切り替えて職務の姿に戻ろうとした。
その途端、艦長室のドアが開いた。
「城戸大佐!」
先ほど、御園大佐と外に出て行ったシドが戻ってきた。
「どうした、シド」
「うちの艦には指令はでなかったのですが、いま岩国基地にホットスクランブルが。空海が行きます。御園大佐がすぐに管制に来るようにとおっしゃっています」
「わかったいますぐ行く」
優しかったお猿さんの顔が、ソニックの横顔に固まった。
「東シナ海で目視できたあれから来たのか」
「おそらくそうではないかと――。横須賀中央指令にいる海東司令が御園艦隊も見ておけと」
管制室に向かう大佐の背を追うようにして、シドが大尉の顔で報告している。
岩国に帰った高須賀准将の空海が、またあの大陸国に飛行隊に向かう。今度はどうなるのか。
「御園艦長に知らせてまいります」
「いや、構わない。うちの出撃ではないから状況報告だけ俺がする」
凛々しい大佐殿の判断に、心優はもうなにも言えなくなった。
彼等が管制室へと駆けていく。
真夜中の出撃。再び岩国の空海が行く。
心優も管制室でその様子を一緒に見守った。のちに艦長に空海がどうだったかを側近としても報告できるように。
御園大佐と雅臣と一緒に、横須賀中央指令が繋いでくれた対空処置の無線を聞かせてもらった心優も、ついにそのひとことを聞いてしまう。
『白い飛行隊を出せ、それ以外は前回同様に撃ち落とす』
かすかな英語の声。心優の身体が熱くなる。信じたくないと血が騒いでいる。
聞き覚えがある声……? 王子の声? 確信は得られないが聞いた瞬間、爽やかだったあの王子の顔を鮮烈に思い出していた。
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