38.東シナ海の影
雨上がり、三浦半島沖をゆっくりと航行中。
本日もお茶の時間がやってきた。
「失礼いたします。もしよろしければお茶のお供に、まかないついでにつくりましたものです」
是枝シェフからの差し入れ、ほかほかのマフィンだった。
もうそれだけで艦長の目がきらきらと輝いた。
「ありがとう。是枝さん」
「艦長がお好きなココアフレーバー、プレーン。あと、こちらフロリダから届いたアメリカ製のジャム数種です。お好みでどうぞ」
いたれりつくせりで、もう艦長の顔がそれだけで女の子になっている。こういう気のほぐし方、さすがミセス艦長付きシェフを何度もこなしてきただけあった。
「心優もいっしょに食べましょう。あ、光太も……」
「俺は甘いものはほどほどっすから。女の子たちだけでどうぞ」
女の子たち! その言い方に心優はギョッとしたが、御園准将は『そう』と嬉しそう。
「では自分がお茶を入れてまいります」
光太からさっと指令室給湯室へ行こうとしていた。心優ははっとし後を追う。
給湯室では既に光太が湯を沸かし始め、ティーポットの準備までしている。もう手慣れたもの。出航まで二ヶ月ほど、いきなりの異動ではあったけれど、彼はこういうふうにして吸収率がとてもよい。空手を教えている時にも感じていたことだった。 心優もティーカップを準備しながら、光太の隣に並んだ。
「なーんか最近の吉岡君。女性慣れしてきたね。女の子たちって……」
「そうすっか? うん、でも。浜松基地にいた時より小笠原は女性も多いし、接点もたくさんあるし。なによりも俺、見ていて思ったんですよ」
なにを? 心優はこの後輩が二ヶ月でなにを知ったのかと首を傾げる。
「御園准将ほど女を捨てなくては行けないと思っているはずの人なのに。だからこそ、女の子みたいになりたい時もあるんじゃないかなって」
なに、この子! 心優はさらにギョッとする。女性に疎い純朴なだけの男の子だと思っていたけれど、この二ヶ月、いろいろな女性と触れあっているうちに、さらに毎日毎日ミセス准将と一緒にいるうちに『ミセスのツボ』を見つけてしまっているようだった。
「特に。ご主人の御園大佐を目の前にすると、ツンケンした物言いで女の子扱いしないでという態度は取るけど、結局、上手な旦那さんにほぐされて、可愛い女の子になっちゃってるかなって」
「そうだよ……。まさにそのとおりだよ」
これからこの艦でも幾度となくみることになるだろう彼等の夫婦関係。光太は既に見抜いていた。
「だから。艦長室では基地の准将室とはまた違ってリラックスして欲しいから。俺も失礼にならない程度に女の子にしてあげたらいいかなあって」
素晴らしい! 吉岡君!! 心優は思わず拍手をしたくなった。
「もう~、吉岡君ったら。ほんっと頼りにしているからね!」
でも彼は温めたティーポットに紅茶葉を入れながらうつむいている。
「まだはじめてのことばかりで、自信なんてないっすよ。ただ……無事に航海が終わればいいなって思ってます」
「うん。そうだね」
「あんなに泣く母親も初めてだったんで……」
昨日の桟橋での別れ。確かに光太の母親は桟橋の尖端まで来て最後まで手を振っていた。
「いまの空の軋轢なんてなんも知らせていないはずなのに。ただの巡回だよと伝えたのに」
「艦長付きということだから、心配したんじゃないの」
しかしながら。空の緊迫状態は時々、報道でも話題にされる昨今にはなっていた。
それを感じ取っているなら一般市民でも、現在の防衛がどのようなものか不安に思うのも当然かもしれない。
そんな光太を『大丈夫。頼れる先輩に上官ばかりだから』と励まして、煎れたお茶を持っていく。
―◆・◆・◆・◆・◆―
準備したお茶を持って、艦長室へ戻ると、御園艦長デスクには城戸大佐がいた。
「お疲れ様です。城戸大佐」
「お疲れ様、園田、吉岡。いい匂いだな。そうか、もうそんな時間か」
「雅臣も一杯、休んでいけば。ちょっといろいろゆっくり話したいこともあるから」
「そうですね。今後の確認を自分も一緒にしてほしいです」
「光太、福留さんに副艦長にホットコーヒーを一杯お願いしてきて」
「イエッサー」
艦長がデスクを立ち、ゆったりとしたソファーへと向かっていく。雅臣もそこに促され、艦長と副艦長のふたりが角合わせの位置で座った。心優は艦長デスクに置いてかれたティーカップをミセス准将の座ったところまで持っていく。
「城戸副艦長、出航準備ご苦労様でした」
「昨年、橘大佐に教わっておりましたし、手際の良い御園大佐が一緒でしたので滞りなく済ますことが出来ました。お言葉、ありがとうございます」
「これからのことなんだけれど」
「承知しております」
手にしていたタブレットに見せたいものを表示させ、御園准将へと差し出す。
「こちらです。今回は前回とは反対回りの東から西、南へいく航路です。アラート待機のローテンションです」
雅臣がタブレットをタップして、次のスケジュール表を准将に示す。
今年二月末から出航した前回の任務は、東から北へ、北から西、西から南、南から東と日本外周を巡回する航路だった。今回はその逆、南回りになる。
それも『今回の注意点はまずは西方からくる飛行隊への警戒』であるから。北から回ると西方まで辿り着くのに日数が必要となるため、南回りになった。
「おそらく、このあたりで向こうも気がついて大陸から偵察にやってくると思います。そこで第一陣に置いたパイロットがこちらです」
雅臣が組んだだろうローテンションを御園准将が初めて確認する顔。
「うん、いいわね。私が考えていたものと同じだわ」
「ありがとうございます」
「以後の配置もいいわね。それでいいわ。スクランブル指令がやってきたらこれでお願い」
「承知いたしました」
タブレットを雅臣に返したミセス准将が心優が目の前の置き換えたティーカップを手に取る。とても満足そうな微笑み。
空海との緊急合同訓練後も、ミセス准将と高須賀准将は雅臣が禁じ手を考えていることに素知らぬふりを貫き通した。そして雅臣も『俺の上官は必ず気がつく』とわかっているだろうに、なにもいわれないからと素知らぬ顔をしている。どちらもそんな禁じ手など存在しなかったように振る舞っている。
高須賀准将のその後の訓練もかなり功を奏していると聞いている。
帰る前の高須賀准将の訓練の総評。『バレットとスプリンターが上手い具合に、敵国飛行隊を引きつけてさっと逃げる。こちら空海も毒にやられたふりをして前回のようにひゅっとアウトラインにひきこまれそうにしてやっても、前回よりもうまい引き際をみせるようになったよ。あとは本番での大陸国の反応だ。それは出航しないとわからないな』――と言って岩国に帰還した。
『だが逃げだけで終わる話ではない。ほんとうの攻防戦に持ち込まれたら……。それも実戦させておいた。おそらくバレットがいちばん食い込むし食い込まれる。その名の通り弾丸だ。雅臣がどう発射させるかだな。君も任せてばかりではなく、いざというときは一声張れるように控えておけよ』
切り札は絶対に使うなと怖い顔で言い放ち、最後はいつもの優しい僧侶の顔で『無事帰還を祈る』とミセス准将の敬礼をして帰っていった。
そしていま、出航後も。今後の指揮を確認する艦長と副艦長の間に相違はないという雰囲気だった。
でも心優は『毒に気がつかないふり』をしているとその裏をわかっているので気が気じゃない。あの禁じ手は素人の心優でもわかる。司令にばれたらとんでもないことになる。もしばれたら本当に監査が入り、査問にかけられる。そこでやってはいけないことだったと判を押されたら、御園准将はもとより、実行した雅臣もただでは済まない。もう飛行隊を指揮することはできなくなるだろう。
空から離れる雅臣なんて見たくない、二度と。
「その時計、いつもの時計と違うわね」
ミセス准将が他愛もない話でお互いの肩の力が抜けるようにと、ふと目についたとばかりに雅臣に話しかける。
「あ、そうなんです。亡くなった友人が、俺に遺してくれていたものです。つい最近見つかったので、お守りに。それと空が好きだった彼も一緒にと思って」
親友の健一郎の部屋で見つかった雷神抜擢お祝いのパイロットウォッチ。それを雅臣がいよいよ航海へ出るとなって、いつもの愛用のものから付け替えていた。
御園准将も茶色の瞳を見開いて驚いている。
「亡くなった友人って……」
「俺と事故に遭った友人です。この前の帰省で仏前に挨拶してきました。ひさしぶりに彼のお母さんとも会えまして、彼の部屋に通してくれたのですが、そこでこれが見つかって」
「まあ。いままでお母様も見つけられなかったということなの?」
「はい。すごく不思議な出来事だったので、彼が俺を待っていてくれたのではないかと思って連れてきました」
「そうだったの……。お友達に戻れたのね」
アイスドールであるはずのミセス准将が、ガラス玉の瞳を熱く潤ませている。
「もう、やだ。出航したばかりなのに」
ハンカチで目元を押さえるほどだった。
「もう泣いても俺は怒りませんよ。葉月さんにはこれからいっぱい涙を見せて欲しいですからね」
「なんですって。ほんっと最近生意気ね。上官だから泣いたら怒ると言っていたのに。泣いてもいいってことはやっぱり私はお役目ごめんだから泣いてもいいってことなの!?」
泣かすし怒らせるし、ほんと最近の雅臣のアイスドール崩しは見事なものだと心優も感心する。
でも弟部下の顔で『あはは』と楽しそうに笑っているし、葉月さんも最後にはいい笑顔になっている。
心優もほっとする。そこで光太が副艦長分の珈琲を持ってきた。
「どうぞ、福留さんの珈琲です」
雅臣もにっこり、あの愛嬌ある笑みをやっと見せたから、心優は久しぶりにドキッとしてしまう。凛々しい大佐殿も好きだけれど、普段のお猿の愛嬌も大好き。
「やった。福留さんの珈琲がこんなそばにあるなんて、嬉しいっす」
雅臣まで弟分気分で、後輩口調になったので光太がびっくりしている。でもミセス准将もそれだけで『副艦長になってもかわいい雅臣ね』とばかりに、表情を和らげていてとてもいい雰囲気。
心優も光太もいらっしゃいと誘われ、副艦長の雅臣とは仕事の話も終わったようだったので、遠慮なく同席させてもらう。
そこで心優は御園准将とマフィンを分けあう。和やかなティータイム。心優のボスであるミセス艦長も、夫である副艦長の雅臣も、仕事では駆け引きをしながらも、信頼し合っているからこそだと思えてきた。気を抜けばこうしてお姉さん先輩と男の子後輩として楽しそうにできるんだから。
安心して、心優も遠慮なくプレーンのマフィンを頬張った。うわ……おいしい! もしかして陸でお店で買うよりおいしいかも、さすがシェフと航海中なのに嬉しくなってしまう。
臣さんも楽しそうだし、光太もいるので男同士の会話も軽快で、それを楽しそうに聴いているミセス准将も明るい微笑み。
なんだかこのまま、このままで終わって欲しい。そう思えるものだった。
だが、艦長室のドアがノックもなしに勢いよく開いて、御園大佐が入ってきた。
「葉月……」
艦長を妻として呼んだ。眼鏡の大佐のその険しい表情は、こんな和やかなティータイムなど、艦上では一瞬に過ぎないのだと目覚めさせるもの。
「どうしたの、あなた」
夫のただならぬ表情から、御園准将もただごとではないと感じたのか、すっと立ち上がる。
「……いや、申し訳ない。……艦長だった」
一瞬、頭を振って正気に戻ろうとする御園大佐の仕草。いつもはなにごともどんと受け止めて余裕な大佐殿ではなくなっている。
それは副艦長である雅臣にもよほどのことだと通じたようで、雅臣も珈琲カップを置くと立ち上がった。
「御園大佐、どうかされたのですか」
青ざめたような顔のままの御園大佐は、まだ躊躇っているが……。
「東シナ海に艦隊のような船影が見えるとの報告が」
艦隊が見える? 心優はそれがどのような状況なのかわからない。東シナ海の向こうはあちらも領海であるからその辺りを航行していることもあるだろう。しかし御園准将もやや狼狽えている、そして雅臣も。
「目視ができるということなの?」
「そう。『目視が出来る』ということだ。こちらの空母があの海域に到着するまで待機している護衛艦からの報告だ」
目で見えるところまであちらから迫ってきているとのことらしい。
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