43.旦那さん特製、フレンチトースト

 東シナ海まであと少し。

 緊迫する指令室、管制室、艦長室、警備隊。いつでも出撃OKに整えている甲板、機関。


「はーい、ちょっとしたおやつの時間ですよー」


 なのに今日もいつも通りの人がいる。しかももう自分の部屋の如く頻繁に出入りをして……。


「なにしているの、隼人さん」


 艦長室に入ってきた旦那様が、今日は黒いエプロン姿でお料理を運ぶワゴンを押して入室してきた。心優も『今度はなにを始めたの』と思わぬ行動ばかり繰り出してくる眼鏡の大佐の姿に目を丸くする。


「そろそろ食べたいだろ。ダンヒル家直伝のレモン風味フレンチトースト、隼人作です」


 静かに本を読んでいたミセス艦長がびっくりした顔で椅子から立ち上がった。


「ええ! もしかして、隼人さんが作ったの?」


 旦那様が黒いエプロン姿で『えへん』と得意げに胸を張った。


「是枝さんの許可をもらって作りました。自宅の調理器具と火加減がちがうんでそこちょっと苦労したかな」


「じゃなくてっ。厨房で調理をするにはね……、まず調理師の許可と、衛生的検査とか……」


「あ、大丈夫。俺、出航するまでに是枝さんにあれこれ手配してもらって、調理できる検査もしちゃってるから。もちろん合格してるから安心して欲しい、厨房長の是枝さんの許可はいうまでもなく」


 『はあ? いつのまに!』と、さすがの葉月さんも目を丸くしていた。


「い、いつのまに、そんなこと」


「艦長さん、なにいってんのかな。俺もね、これでもね、大佐なんだよな。あちこち問い合わせてお願いすると通っちゃうんだよ。ああ、お嬢様のお父上の力のおかげでもあるんだけれどねえ」


 心優もびっくり。そこまで考えて準備をして手配をしてやりたいことができるようにする。でも心優は気がつく。きっと航海中もご自宅同様に、ご自分が作って食べさせているものを艦長に奥様に食べて欲しいから。そこまで考えて手配していたんだとわかる。


「園田も食べるよな」


「はい! 一度食べてみたかったんです。御園大佐お手製のレモンフレンチトースト! 是枝さんが教わったレシピで作ってくださったことはあるのですが、大佐のお手製は本家本元ですよね!」


「俺の、フランスのおふくろの味だからな。まずこれから作れるようになったんだよ」


 どこか懐かしそうに眼鏡の奥で眼差しを伏せた御園大佐が、ソファーにフレンチトーストのお皿を置いて、お茶の準備まで始める。


「吉岡はどこにいったんだ」

「ハワード少佐と共に管理事務室で雑務をしています」

「では、女性のティータイムだな」


 エプロン姿の大佐殿が整えてくれたテーブルへと、准将と心優は吸い寄せられていく。


「たくさん作ったのね。こんなに食べられないかも……。夕食前だし……」


「たくさん作ってしまったんだよ。残ればそれもまた指令室で分けますから、お好きな分だけお食べください」


 まるで執事のように、優雅にティーポット片手にお茶を注ぎ、眼鏡のにっこり笑顔の御園大佐。


「どうぞ、ごゆっくり。私は一度退室させて頂きまして、指令室におりますね」


 エプロン姿のままさっと出て行った。

 見慣れているだろうひと皿を眺めて、准将が溜め息。


「なにしているんだか。もう、いいのに……」


 あの手この手で自宅同様にしようと頑張っている旦那様がすることが、申し訳ないといったお顔……。


「動かずにいられないのではないですか。もしかすると御園大佐も、お料理をしたり、どなたかに飲み物を作ってあげたりしているほうが、落ち着かれるのかも?」


 そこでやっと奥様もはっと我に返った顔になる。


「そうかもね。……いつもそれが当たり前になっていたから。妻の私が動き回らないで、あの人が動き回ってくれているから『してくれている、ごめんなさい』という気持ちも強くって……。私の気持ちがまだ『外に向いている』ことを良くわかってくれていたのね。だから、子供が産まれても『家庭に入れ』なんてひとことも言わなかった。むしろ、俺が待っているから行ってこい、おまえしかいないだろって……。でも、彼側の気持ち、勝手に決めつけていたかもね」


 心優もはっとする。琥珀の瞳に涙が浮かんでいた。アイスドールの涙はここでしか見られない。許された人間だけしか見られない。


「いけない。どうしちゃったのかな、私。あの人がまさか同じ任務で艦に乗るなんて初めてで、なんか変な感じなの」


「しかたがないですよ。いままで牽制し合ってなんとかバランスを保ってきた対空措置ももう限界で、バランスが崩れてしまって。しかもそれを担う任務を任されたのがこの艦なのですから。艦長には万全でいていいただきたい海東司令の配慮だと思っております。御園大佐もここ数日の急行航行で緊張感が高まっているからこそ、『いつも通り』にしようと空気を和ませているのではないでしょうか」


「そうね。いけない、冷めちゃうから食べましょう。冷めてから食べると怒られるのよ。いちばん美味い時に何故食べないのかって」


「もう料理人そのものですね」


 女ふたりでクスクスと笑って、優雅なティータイムを堪能する。


 厚切りホテルパン、甘みのある生地に濃厚な卵、でもすり下ろしたレモンの皮の香りが爽やかさを引き出して。そしてシュガーと、カリッと香ばしく焼けているパン耳。


「おいしいですーーっ」


 これは家庭の味だと心優も感動! 是枝シェフのはプロの味、御園大佐の料理は極上の家庭の味!


 レモンの風味も手伝って、心優は思わずもくもくと味わう。途中で『は、いけない!』と我に返ったけれど、隣に座っている奥様ももくもくと食している……。


 ふたりで『ふう、満足』とばかりに、あたたかい紅茶を味わっているところで、御園大佐が指令室から戻ってきた。


「もうそろそろ、ご馳走様かなと思って来てみました」


 御園大佐がソファーのテーブルを覗き込む。心優はにっこり。


「おいしかったです! フランスのお母様の味だと伝わってきました。ほんとうです!」


 感動をそのまま伝えた。でも眼鏡の大佐の目線はしらっとしていて、奥様をじっと見つめている。そっと、心優もミセス艦長を見るとなんだか恥ずかしそうにハンカチで口元を綺麗にしながらそっぽを向いている。


「艦長室のレディ達が食欲旺盛で安心しましたよ」


 心優もはっとする。目の前のお皿二人分。綺麗になにもなくなっていた。


 こんなに食べられないわよ――と奥様は言っていたのに、結局、ぺろりと食べきっている。


「それぐらいは食うと思っての量で作ったからな。これぐらいおやつで食べても、夕食だってしっかり食うんだから」


 そういって御園大佐はやっと楽しそうに笑いながら、テーブルにある食器を置いていたワゴンへと片づけ始める。


「もう~。貴方に乗せられて、おもいっきり食べちゃったわよ」


 やっと奥様の顔で、旦那様の配慮に降参したようだった。

 また御園大佐もにっこりと嬉しそうに微笑んで黒いエプロン姿で食器を重ねている。


「とにかく。艦長はよく食べて眠ること。葉月に食べる力があれば、どんな力も湧いてくるだろう。俺と結婚してからも、葉月は風邪をひいたことなんて滅多にない。その食欲こそが、元気の源なんだろうな」


 そうなんだ……と、長年、夫妻としていると食事ひとつでわかってくるんだなあと心優も感心。でも心優も食べる方なので、『食は力』はすごくわかるなあと同感でもあった。


「はあ、でも。海人がパパの朝ご飯を恋しく思っているのではないかしら」


「だと嬉しいけれどな。それでも、海人ももう俺のようにこのフレンチトーストは作れるから自分で食べているだろう」


「自分で作ったのと、パパが作ったものは違うわよ。私だってそうだもの。自分で作ったパンケーキと、ママが作ったパンケーキは違うもの」


 ご夫妻らしい気兼ねのない会話に挟まれる心優だったが、こういうときは口出しせず会話に入らず空気になると努めている。飲みかけのティーカップを持って席を立ち、自分のデスクへと移動する。


 そこでワゴンで食器を重ねていた御園大佐が楽しそうにしていた顔から、やはり息子を案じているのか眼鏡の奥で哀を滲ませる眼差しを伏せていた。


「俺も、そう思いながら親から離れたもんだよ。十五歳だった。いまの海人と一緒だ。俺と葉月にとってはまだ子供でも、海人はそう思っていない。『お父さんが十五歳で独り立ちをしたのなら、俺も留守番ぐらいできるよ』と言ってくれたんだ」


「……貴方からそう聞いて……。ああ、隼人さんが横浜のお父様から離れていった歳はこんな男の子だったのねと初めて感じたものよ」


「おまえだって。そばに実家があったとはいえ、十三歳で寄宿舎生活だろ」

「そうよ、そこで沢山食べること覚えちゃったの。残すことにも厳しい時代だったしね」


「そして。男子と喧嘩もいっぱいしたと」

「だから……。そういこと、心優の前で言わないでよっ」


 空気なんだけれど、空気じゃなくなることもある。旦那様にからかわられて、また奥様がお嬢様の顔で真っ赤になっていた。


「今更だよな、なあ。園田」

「そうですね。准将がとっくみあいの喧嘩をしたお話はあちこちで聞きますからね」


「ほら。俺が話さなくても、おまえのじゃじゃ馬な経歴はあちこちで有名なんだから仕方がないな」


「なにが有名なのよ!」


 と御園大佐と一緒に心優も笑い出したその時――。


『こっちにこい。もうやめろ! いつまでも喧嘩するなら罰則どおりに謹慎処分にするぞ!!』


 喧嘩の話をしていたら、外から雅臣の険しい声が響いてきた。


 くつろいでいたミセス艦長も、エプロン姿のままの御園大佐も顔を見合わせ、視線はドアへ。


「失礼いたします。城戸です!」


 ノックは聞こえたが、心優が行く前に開いてしまった。


「この、大人しくしろ!」


 いつもおおらかで、男達の気の良い兄貴でもある雅臣が珍しく憤っていた。しかも片手に掴んでいるのは、パイロットスーツの襟首、真っ白な飛行服の衿を掴まれ持ち上げられているのは、鈴木少佐だった。


「雅臣、英太……、どうしたの」


 いつもおおらかでドンと構えている雅臣が怒っているし、そして猫の首をひっつかむように連れてきたのは同じぐらいの体型のエースパイロット。


「くっそ! なんで艦長室まで連れてくるんすかっ。俺とフレディだけの問題でしょ!」


 先輩に首根っこ掴まれひっぱってこられた大の男が、子供のようにジタバタしている。しかし掴んでいるのは彼も憧れているおなじように立派な体型の元エースパイロット。


 その雅臣が反抗的な部下であってパイロットの後輩でもある鈴木少佐の首根っこをひっぱりあげさらに締め上げる。


「個人間での問題なら、大人としての対処ができるはずだ。なのに、公共の通路でとっくみあいの喧嘩とは何事だ!」


「うー、ぐぐっ、せ、先輩、くるじい」

「先輩じゃない!」

「うー、お、お許しくださいっ、た、大佐殿っ」

「大佐でもない!」

「副艦長……どの……」


 それでも抵抗虚しく、鈴木少佐はミセス艦長の目の前へと突き出される。


「ひさしぶりね、英太が騒ぎを起こすなんて」


 驚いたのも一瞬、お姉様であってある意味保護者でもある御園准将が溜め息をついた。そばにいる眼鏡の御園大佐も同じく。


「なにがあったんだ。フレディまで」


 雅臣と鈴木少佐の騒々しい入室に目が釘付けになっていたが、コナー少佐がフレディ=クライトン少佐に付き添っていた。彼も苦悶の表情を刻み、憤怒しているように見える。


 それだけで心優も『仲がよいお二人が喧嘩したんだ』とわかった。

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