51.私は、旦那さん

「心優! 放して!」

「いいえ。ラングラー中佐ならこうすると思います!」


 それも本当の気持ちだった。そう聞いた途端、ミセス准将も信頼している部下を思い出したのか急に力を抜いた。


 そんな心優を見て、雅臣も頷いてくれる。雅臣も既に御園大佐に委ねたのか、ミセス艦長より落ち着いていた。


『夫なんて、そう言えば誰でも夫になれる』

「信じる信じないはそちらに任せる」

『彼女の夫ならば、さぬきうどんをどう料理するかだな』

「は?」


 今度は逆に御園大佐が眉をひそめた。


 だが、葉月さんと心優はそこでハッとして顔を見合わせる。

 雅臣もだった。こちらの女ふたりを見ている。

 あの時、居合わせた者だけが思い出す『会話』があるから……。


『彼女の夫は料理をするそうだ。さぬきうどんはどう食べるか』

「……、オリーブオイルに、トマトソース……だが……」

『ふ、そうか。わかった』


 あちらの男が笑った。


「ロックオン回避」

「領空線付近の二機、後退していきます」


 管制の報告に、雅臣がほっとした横顔を見せた。


「返すよ」


 眼鏡の大佐がヘッドセットを雅臣に返した。表情は変わらず、落ち着いていた。


「まったく、御園大佐にも驚かされますね」

「あーあ、海東司令に怒られるなこれは。俺が更迭になったりして」


 御園大佐がそこでやっとおどけて笑ったが、心優から見ても『更迭になってもなんらかまわない』という覚悟を見せられた気もした。あれはあれで、御園大佐は奥様が矢面に立つのをひとまず防いだことになる。


 だが危機はまだ去っていなかった。


「副艦長、まだあちらから呼びかけがあります」


 レーダーからは大陸国戦闘機四機がどんどん離れて後退していくのが見えるのに、まだあちらが呼びかけをしているという。


「もう一度、俺が出よう」


 再度、御園大佐がヘッドセットを雅臣から受け取った。


『旦那さん』

 気易い呼びかけに、御園大佐が顔をしかめた。

「旦那さんだ」

 何故か管制室の隊員達が笑いを堪えている。


 あの御園大佐が国際緊急チャンネルで、旦那さんだと名乗るのがおかしかったのだろう。


『今回は旦那さんが出てきてくれたので撤退するが、夫だというのならば彼女に間違えなく伝えろ』

「わかった。伝えよう」

『次回の呼びかけには彼女を必ず出せ。そこにいないというのなら、そこに連れてくるか、通信手段を準備して待っていろ』


 御園大佐はそれにわかったという承知の返答はしない。黙り込んでいる。


『次回彼女が出てこなかった場合は、白い戦闘機を一機、こちらに連れ込んで我が国へ浚っていく。人質というわけだ。そちらご自慢の開発機も拝めるようになる。それでもいいのか検討しろ。いいな』


 旦那さんという呼びかけで一瞬和んだかのような室内がまた凍った空気に変貌したのを心優は感じ取る。


「伝えておこう」


 御園大佐はそうするとも返答せず、ただ聞いたことは伝えるに留めたようだった。


 だが御園大佐もそれだけで終えなかった。


「どうして彼女に拘る。それは教えてくれないのか」


 それ以後、パイロットからの返答はなかった。


 数分後、御園大佐から呼びかけても返答はなし。官制員の『レーダーから消えました』の報告に大佐も諦めてヘッドセットを取った。


 雅臣がそれを受け取ると『着艦だ』と、雷神の出撃した四機を呼び戻す指示。


 御園大佐が奥様の目の前に戻ってくる。

 やはりミセス艦長は夫を睨んでいた。


「誰が魔女よ」

「魔女になってくれなければ困る」


「前回までは、雅臣でもなく、貴方でもなく、私がそこに立っていた。今回もそこに立っていたならば、私が直接、最初から彼と話していたのよ。あんな危険な駆け引きなどしなくて済んだでしょう。なにが違うの!」


 奥様は憤っていたが、御園大佐はホークアイの冷ややかな目を眼鏡の奥から見せ、奥様を見下ろしている。


「今回の彼等の目的が、女艦長のおまえ自身だからだ。戦闘機パイロットを人質にしてまでおまえとなんらかの交渉を目的としている。もしおまえが先ほど、直接会話ができてしまったら、おまえわけのわからない交渉をもちかけられていたかもしれないんだぞ。今回は前に出るな」


 おまえが目的。そう断言され、ミセス艦長が黙った。


「私が目的……」


 なにか思いあぐねているその横顔に、心優は不安を覚える。

 急にミセス艦長が弱気になったように見えてしまったから……。


 ラスボスの魔女艦長。その彼女を奥に据え、彼等の目的を推察して行かねばならない。それが御園大佐が言いたいことのようだった。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 


「やっぱり納得できない」


 緊迫した初戦接戦を終え、この日の午前はその整理で追われた。

 ミセス艦長はデスクでずっとむくれたままだった。


「俺、またスクランブルの時に仮眠だったってわけですかっ」


 光太がまた緊迫した管制室での出来事を、心優から報告されるだけで話を聞かされるだけと情けない顔になっていた。


「しかたがないじゃない。それに、次はきっと吉岡君も目の当たりにすると思うよ」

「それで。ご主人の御園大佐に、ラスボス魔女はひっこんでろと言われて拗ねているのですか」

「しかも御園大佐が相手の通信で『夫だ』と名乗ってしまったからね。心配もされているのよ」


 あのあと海東司令からの確認のための衛星通信があった。御園大佐の咄嗟の判断、自分が夫だと名乗ったことには注意はされたが、厳重な懲罰があるという話はなかった。


 むしろ『今回は仕方があるまい。御園大佐が夫だと名乗ったことで撃墜は免れ、時間稼ぎをもらえた』とその判断を労われたほどだった。


 しかも海東司令の指示は、御園大佐の方針と同じだった。『御園准将は、いっさい通信には応じないように』――とのことだった。


 だからなおさらに、ミセス艦長は『納得できない』と午前中いっぱいご機嫌斜めだった。


 是枝シェフも気遣ったのか、その日は少し華やかな彩りのランチが出てきた。


 光太も気遣ったのか女だけのランチにしようと指令室の男性陣と共にカフェテリアへ、心優はいつもどおり女ふたり、艦長室でランチをとった。


「私、部屋で休んでいるわ。ちょっと気持ちを落ち着けてくる」


 ランチを終えると、またいつになく疲れた顔をしてミセス准将が艦長デスク室を退室した。


 心優ひとりで艦長室の留守を守る午後となる。

 一時間半ほど、事務処理に勤しんでいると、御園大佐が訪ねてくる。


「あれ、艦長は」

「ランチ後、お休みになっております」

「ああ、そうなんだ……」


 心優が淡々とした返答をしても、御園大佐は退室せず、手持ち無沙汰のようにしてまだそこにいる。


「どうかされましたか」

「いや、前回、葉月が王子と会話をした時の記録をもう一度確認したかったんだ」

「ああ、さぬきうどんのことですか」

「そう、あんな会話、報告書にあったか?」


 心優は首を振る。


「中央司令で保管している報告書には、城戸大佐がICレコーダーで録音したものと共に、一句も漏らしていない報告書が保管されていると聞いています。ですが、ほかの指揮官への報告書では私的な会話については省略されていました。私もあのような会話は指揮官達にいちいち報告するものではないと思いましたので、司令部がそこは省いたのだと思っています」


「だったら、園田は聞いていたわけだ。さぬきうどん云々のくだりを」


「はい。聴取が一通り終えた後、何を食べたいかと艦長が彼を安心させるように問いかけた時に、彼は『せっかく日本に来てしまったから、日本食を』と望みました。なのに艦長は、私のオススメはママのパンケーキだと言いました」


「ママのパンケーキ。ま、確かになあ。あいつのおふくろの味だもんな。それを是枝さんは見事に再現してくれている」


「ですが王子は、パンケーキは日本料理ではないし、自分の国でも食べられるといいました。そこで葉月さんが、ご主人の讃岐うどんもオススメと言いました」


「あ~、まさか。冗談で、トマトソースで食べるとか言ったんじゃないだろうな」


 心優は『そうです』と答えると、御園大佐ががっくりとうなだれた。


「それで俺が、彼女がその時話したとおりの返答をしたので夫だと信じてくれたわけか」


「ということは……。彼も夫と名乗る大佐が急に出てきても咄嗟にあの質問ができたわけですから、王子で確定ということですよね?」


「そうだな……。そういうことだったのか。まあ、信じてもらえたのなら。これからも俺が交渉相手として認めてくれるかもな」


 やはり、奥様の前に立ちはだかって守ろうとしているんだと心優は思った。


「部屋にこもってどれくらいになる? 拗ねているんだろ」

「一時間半経ちます」

「長いな……」


 御園大佐が眼鏡の顔で、艦長デスクではなく、妻が休むベッドルームへ行くドアを見ている。


 いま光太は指令室でお手伝いをしていてここにいない。心優しかいない。だから心優から言ってみる。


「ここには、大好きな芝土手もないし、お気に入りの自販機もありません。あの部屋だけがいまの葉月さんのサボタージュできる場所です」


「でも、お気に入りのレモネードを販売しているメーカーの自販機と商品はわざわざ搬入させただろ。メーカーさんがミセスのおかげで空母で販売できると喜んでいたけどな」


「そうではなくてですね……。ベッドルームは、艦長のプライベートの場所です。ご主人様なら大丈夫でしょう。行ってあげてください」


 若い心優からの進言に、御園大佐の眼鏡の奥の目が大きく見開き、固まっていた。


「いやいや、ほらな……。その……」

「行ってあげてください。わたしは知りません」

「昼間、なんだけれどなあー」


 昼間なんだけれどなーと迷うその心情の裏で、彼が思っていることがなにか心優もわかってしまう。でも素知らぬふりを決め込む。そこでなにをしようがそれは夫妻の勝手。心優は笑みも見せない真顔で、そのまま書類へと顔を伏せた。


 その瞬間だった。心優が目線を外してすぐ、眼鏡の大佐は姿を消していた。ベッドルームに向かうドアがぱたりと閉まった音、彼の姿はない。


 上官と部下、妻と夫、官制員の目の前で「あなた、おまえ」と自然なやりとりをしていた。しかも旦那さんは、奥さんを守るために、部下にはあるまじき激しさで、上官の妻を叱咤していた。


「まあ、ラングラー中佐もやり方は違うけれど、葉月さんにも手厳しかったものね」


 でも妻と夫だから勝手が違う。

 どんな仲直りをするのか心優にはわかっている。女同士、そういうことをあからさまに口にしなくても、そうして仲直りをした翌日の女の顔を見せ合ってきたのだから。

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