29.それは悪魔の呪文

 週末のちょっと思い切った睦み合いも新婚だからこそ。


「もう~、ワンピース、しわくちゃになっちゃった」


 夫の大佐殿に思うままにされて、おしゃれ着もくちゃくちゃに。心優はそれを洗濯機のかごにひとまず放って、そのままバスルームに入る。


 湯気でしっとり温まっている浴槽にはもう雅臣が入っていた。


「狭いよね、官舎の湯船」

「狭いな、でも来いよ」


 そんながたいのいい元パイロットさんがきゅうきゅうに入っているところに、大型女の心優が入れるわけがない。でも入る。


 雅臣が湯船に浸かって、心優は足湯にして湯船の縁に座った。ゆったり堂々と男の裸でくつろいでいる雅臣を見下ろす。


 こんなふうに彼といることが、やっぱり週末のくつろぎだった。



「ねえ、ひとりで葉月さんに立ち向かっていて平気なの。臣さん……」

「え?」


 心優もしっとりしてしまった裸のまま、でも真剣に彼を見つめて問う。


 お互いに裸だけれど、もうお猿さんとお猿の妻ではない。でも大佐殿と中尉でもない。ほんとうに心優と雅臣という夫妻の空気になっている。


「平気だよ。あの人にはどんどん俺の前を走って欲しいんだ。はやくアグレッサー作れよと思っている。今回の西方の思い切った攻撃を受けて、本当に身に沁みたと思う。橘大佐も高須賀准将も。もっといえば、わざわざフロリダから隠密的に来てくれた大将もじゃないかな。フランク大将が駆けつけなくてもいいようにするには、日本側でもアグレッサーを常備しておくべきと。いままでこの連合軍は日本主体ではなく、組織的にも大きな米軍にリードしてきてもらってきた。訓練の相手に、訓練のやり方も、主力はすべてアメリカ本土。欲しいなら貸してやるというスタンスだった。こちら側で担うなら、自分のそばにある飛行隊で担ってきた。それがいままでの横須賀と小笠原にある連合軍での立場だった」


 裸だけれど、やっぱりそういう話をする雅臣は大佐殿だった。心優も湿気てきた前髪が邪魔になってきて、すっと指で横流しにしながら額の汗も拭う。


「だから、葉月さんが作ろうとしているんだよね」


「あの人がそういう力をいまになって備えられたんだと思う。この小笠原という基地を開発してきた一人だ。そしてフランク大将の置きみやげ。アメリカと日本を繋ぐことができた帰国子女。やっと育って日本のために動けるようになったんだと思う。だから……」


「だから……?」


「さっさと行って欲しいんだよ。いつか俺もそこに行きたいから。もう貴女のやることこれぐらいしかないですよ。そう思わせたかった」


 でもそういう雅臣は少しばかり寂しそうで、とても申し訳ない哀しい眼差しになる。ほんとうはやっと戻ってこられた憧れの上官。もっと一緒に艦に乗って、もっといろいろ教えて欲しいに違いなかった。


 だけれど雅臣もその甘えを捨て、まだどこか決意も曖昧な葉月さんにどんどんその決意の最終ラインへと動かそうとしているのかもしれない。


「すごい怒っていたね。隼人さんにもあんな怒り方しないよ」


「うん。俺が……、事故に遭って空母に行けなくなって『横須賀に帰りなさい』と言われて、上官に言ってはいけないような文句を言い散らしてぶち切れた時でさえも、あの人はアイスドールの冷めた目で平然としていたのにな」


 おおらかな雅臣がたまらず上官に怒り狂った話もその言葉も聞きたくない。でも聞かなくても、葉月さんのアイスドールの顔だけはすぐに浮かんでしまう。


 柔らかな茶色の目をしているのに温度がないガラス玉のような質感の、本当にドールに填め込んだようなあの眼で。頬に赤みもなく、薄い色彩の唇。たまに男性達は『横顔が男に見える時がある』ということがある。牛若丸のような美麗な青年に見えるという人もいる。


「俺に指揮を委ねようと一歩引いて、空母に来なかったんだと思う。あるいは『口出ししたくなるからやめておこう』かな」


「そう言えば、臣さんが空海が来たら『こういう指揮をする』と話してた後、しっくりしないご様子だったもんね」


「それを心優から聞いていたからさ、俺も気がつくことができた。俺が英太に教えたいことと、あの人が英太をこのように動かしたいというのが、今回は一致していないと心優から知ったから。だから『あ、文句を言いたくなるから来なかったんだ』と、俺だけはそう理解することができた」


 きっと准将にも迷いがあるのだと思う。『今日は行かない』と決めた後、『一人になりたい』と言いだした。あの一人の時間になにを思っていたのだろう? 『雅臣の指揮をやめさせたい。英太にはこう飛んで欲しい。でも首を突っ込むべきではない。彼を後継者と決め、副艦長という指令をだしたからには……』、そんな部下にすべてを譲る時の上官の葛藤なのかもしれない。


「最前線で接戦が勃発するような任務の指揮は自分がやりたい――それが葉月さんの本音。でも英太が『俺』を『城戸大佐の指揮を望む』と告げた以上、英太がその飛行を託してくれたのはミセスじゃないソニック。頭では『いまこそ離れる時、ケジメの時』とわかっていても、心では『もっと指揮をしたかった』と思っているんだろうな」


 そこで心優はハッとする。そんな『指揮をしたかった』と未練を持っている御園准将に、雅臣は『貴女はもう指揮者として望まれていない。後は切り札だけお願いします。こればっかりは艦長でなくてはできないお仕事ですから』――。雅臣がそう突きつけたということになる。


 あの時はよくわからなかったけれど、こうして夫の大佐殿のあの時の気持ちを聞いてやっと理解……、じゃなくて心優は青ざめて叫んだ。


「えーーっ! それって葉月さんに対して『もう貴女の仕事はありませんよ、諦めてください』という当てつけじゃない! ひ、酷いっ臣さんったら!!」


 そりゃ葉月さんも怒るわ!!  おもいっきりあの人のお怒りスイッチにダイレクトに触れたんだわと心優は愕然とする。


 なんて酷いアイスドール崩し!


「ど、ど、どういうつもりなのよ! 臣さんったら」

「だから俺、言っただろう。酷い部下になるって」


「どうしてアイスドール崩しが必要なの!? あそこまでしなくったって、これで本当に臣さんと葉月さんの関係にヒビが入ったら、わたし間に挟まれてやっていけないよ!?」


「コックピットと同じだからだ」


 ピシッと言い切った雅臣のひと言で、心優は心のざわつきをひとまず鎮める。


「コックピットと同じ?」


「表面取り繕ってかっこよく艦を降りようとしているようだけれど。俺はしがみつきたいなら最後まできっちりしがみついてから、未練残さずに陸に帰ってほしいと思っている」


 やはり、艦からも気持ちよく出て行ってもらう準備を雅臣も始めたのだと知る。


「艦長の花道だね」


「俺だって寂しいよ。もっと一緒に海でいろいろ教えて欲しかったけれど。辛そうだったもんな。揺れていると思うよ、あと一回乗れるかも、まだ一年いられるかも。艦に乗れば『もう次でやめよう。なにかが起きる前に』と繰り返してきたんだと思う……」


 雅臣も残念そうに眼差しを伏せ、湯の水面を見つめている。


「ねえ、臣さん。あとひとつ。高須賀准将も怒るような『切り札』ってなに? 真っ黒い切り札なんて怖いよ。葉月さんに聞いても『心優には関係ない』ていつもより冷たく切られちゃって……」


「艦長の胸に秘めたるものだからだ。決してちらつかせるものではないから……」


「臣さんはもう切り札がなにかわかっているんだね。艦長候補にもなると、もうわかっちゃうんだね」


「そうだなあ。悪魔の呪文みたいなもんだよ。俺もいつかは胸に秘めないといけないもの」


 臣さんもいつかは、真っ黒な? なんだかそんことがあり得そうで心優は急に怖くなる。


「大丈夫だって」


 不安そうな心優の手を、雅臣が濡れた手でぎゅっと握る。そして『こっちにおいで』と手を静かに引かれた。


 心優もそのまま、狭い浴槽だから湯の中には入れないけれど、そのまま上から雅臣の首に抱きついた。


 汗と湯と湿気に濡れたお互いの肌がくっつきあう。熱くて彼の匂いがいつもより強く立ちこめている。その匂いを吸い込みながら、心優は雅臣の顔を見下ろして、湿った彼の黒い前髪をかき上げる。


 心優はきっととてつもなく不安そうな顔で夫の彼を見下ろしているんだと思う。だからなのか、旦那さんの雅臣は優しくにっこりといつもの愛嬌で笑ってくれる。


「心優、いいか。もう切り札のことは気にするな。そんなもん使うことないよ。俺も葉月さんに使ってもらうつもりはない」


 準備をして欲しいと願い出た雅臣が『使わせない』と言ってくれて、それだけで心優はほっとした。


「護衛官だから彼女を護るためにどのようなものか知りたいかもしれないけれど、心優ではどうにもならないものなんだ。だからそのことは彼女に任せて、心優は葉月さんを護ることだけ考えるんだ、遂行するんだ」


 今度は雅臣が心優の湿った黒髪を撫でてくれる。そしてそのまま自分より小さな妻の頭を抱き寄せてくれる。


「うん、わかったよ。大佐殿」

「だから、ここではそれはナシだって言っているだろ」


 でも。まだ若い中尉の妻を安心させようとする大佐殿の頼もしい声だった。


 そのまま心優もぎゅっと雅臣に抱きつく。

 すぐ目の前に彼のシャーマナイトの目。それをじっと見つめて、心優からキスをした。



 あと少しでこんな生活としばらくお別れになっちゃうから。


「今度のお風呂は広いんだよね」

「もちろん。俺も心優も一緒に入れるものをオーダーしたしな」


 そして雅臣がいつになく嬉しそうにしあわせそうに笑って言った。


「子供達もいっぱい入れそうだった」


 彼もそんな夢を、航海の向こうで楽しみにしていることがわかって、心優も嬉しくなってまた抱きついてしまった。

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