序章(五)

 幼い子にとって兄弟は卑近ひきんな競争相手である。知識と経験で遥か上を行く大人達は頼るべき相手であって競争相手とはなり得ない。次郎信繁は、幼い頃から共に学び、自らの遥か上を行く兄を、競争相手と見なしたことは一度としてなかった。

 その正直な思いは

「自分は兄の足許にも及ばない」

 という意味合いの言葉として、何度か彼自身の口から語られてきた。だがこの言葉は、周囲から

「次郎殿は長幼の序をわきまえている」

 という、謙遜の意味合いで受け取られた。

 厄介なことに、信虎ですらそのように考え、時折嫡男としての立場を鼻に掛けるような態度を取る晴信を疎んじるのに反比例して、次郎信繁を偏愛するようになっていた。

 その信繁が、晴信の来訪を受けたのは、板垣駿河守が晴信に謀叛の計画を披露した翌日のことであった。兄は信繁に、板垣駿河守と共謀して父信虎を追放し、家督を強奪するという驚くべき計画を告げた後、

「だが板垣はいずれ遠からず我らに弓を引くであろう」

 と言った。信繁は思わず

「それならば、父上ではなく板垣をこそ誅すべきでしょう」

 と声に出すところであったが、寸手のところで口をつぐんだ。

 板垣から謀叛の計画を打ち明けられたという兄の話が事実であれば、既に相当程度の家中衆がこの計画に賛同しているものと考えなくてはならなかった。その状況で、信繁一人が騒ぎ立てても、逆に自らが除かれることは目に見えている。

「わしは、兎も角も板垣が担ぐ御輿に乗る。だが板垣に自由に振る舞わせるつもりは毛頭ない。そのためにも我ら兄弟が固く結束する必要があるのだ。わかるか信繁」

 家中では近年晴信はすっかり阿呆になったと噂されていたが、信繁は、あれほどの才気を示した兄がそう簡単に阿呆になれるはずがないと考えていた。

 晴信は

「わしはしばらく阿呆に徹するが、板垣を外征にやるときにその監視役が必要だ。それが出来るのは汝をおいて他にない。板垣はいずれ折を見て誅するが、わしが見ているのはもっと先のことだ。わし一人の身では決して叶わぬ大望だ。どうしても汝の力が必要なのだ」

 と言った後、よろしく頼む、と信繁に頭を下げた。

「兄上の大望を知らぬ信繁ではこざいません。なにしろ岐秀和尚の同門ですから」

 信繁は笑顔を作った。その笑顔が不自然に引きつっていることを、信繁は自覚せざるを得なかった。

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