第一章(於福入輿)‐三

 祝言の夜は更けて初夜を迎えた於福は、所期の目的を果たすために褥において短刀を以て晴信に突き掛かった。

 晴信は座したままその鋭鋒を何度も躱して見せた。座敷において敵の一撃を躱すわざなど、一廉ひとかどの武士であれば誰でも身につけているものであった。

 飽かずに何度も突き掛かってくる於福の所作を見て晴信は不思議に思った。どの突き方も型通りだったからだ。晴信は、やれやれといわんばかりに短刀を突き出した於福の右手首を流すように掴んだ。姫はそれでも短刀を離すことなく、晴信を睨み付けた。

「なかなかの捌きであったがそう型通りでは討てんな」

 晴信がうっすら笑みを含みながら言うと、姫はようやく諦めて短刀を手放したのであった。

 

 翌朝、切腹を申し付けられるものと秘かに思い詰め覚悟して出仕した勘助は、晴信が平気な顔で政務を執っている姿を見ておそるおそる

「あの、腹を・・・・・・」

 と訊ねると、晴信は笑みを浮かべながら

「何だ勘助。はっきりものを言わぬか。腹がどうした。痛いのか」

 と気にするふうでもなく言ったので

「いえその、腹を切りに参上致しました」

 勘助がそうこたえると、晴信は、

「昨晩はえらい目に遭うたわ。輿入れが成っても頸を賭けるという汝の言葉の意味が身に浸みた」

 さも可笑しそうに大笑した。

「では、ご存じなのですね」

「勘助のことであるから概ね読めた。おおかた輿入れすれば仇が討てるぞなどと申し向けて於福を指嗾しそうしたのであろう。それを信じさせるために短刀捌きまで教え込んでな」

「左様でございます」

「型通り突いてくるばかりなのでおかしいと思った。兎に角、勘助が腹を切るは無用。諏方の姫との婚儀は成ったのだ。強いて腹を切るというなら死んだつもりで今後も励め。以上である」

 勘助は思わず平伏した。

(この主のためなら死んでもいい)

 勘助は改めてそう誓ったのであった。

 

 到底敵わないとみて仇討ちを諦めた於福であったが、それでも容易に晴信に心を許すことはなかった。父の敵と思い定めた相手なのだ。当然であろう。

 晴信もそんな於福を無理矢理に手懐けようとは考えなかった。その心中を察して遇する武田家中に、次第に於福の心も解きほぐれていったと見える。輿入れの翌年、晴信との間に後年武田勝頼と名乗りを挙げることになる男児を出産したのであった。

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