第四章(三増峠の戦い)‐六

 逃げる甲軍小荷駄衆と、突出した北条綱成隊との間に割って入った部隊があった。淺利信種率いる西上野衆であった。淺利信種は、本戦が始まる前に、信玄から一朝ことあれば小荷駄衆の楯となるよう言い含められていた。

 武田領国に編入されてから日が浅い西上野衆は、旧主を失った武士こそ哀れ、夫丸の弾除けにされてしまったわけである。

 その西上野衆の陣中に北条綱成隊の放つ弾丸が容赦なく撃ち込まれ、馬上において防御戦の指揮を執る淺利信種の胸元に、一筋の弾丸が命中した。信種は騎馬からどうっと転落した。

 軍監として西上野衆の戦い振りを検分していた曾根内匠助昌世のもとに

「淺利信種殿御討死」

 との報せが入った。

 昌世が西上野衆本営に駆け込むと、信種の遺体は戸板に乗せられ運び込まれていた。信種の胸には小さな鉄炮疵があって、ぽっかりと空いたその銃創から止めどなく血が溢れ出ていた。

 昌世は信種が死んでも放さなかった血染めの采配を手に騎乗するや

「御譜代衆淺利信種殿は貴公等西上野衆に先んじて名誉の戦死を遂げられた。貴公等も命懸けで戦え。これは無二の忠節を示す絶好の機会であるぞ」

 と、西上野衆を一層励まして自らその指揮を執ったのである。

 淺利信種討死の報は、小荷駄衆に引き続いて峠を駆け上がる信玄本営にももたらされた。

「して、残余の西上野衆を束ねている者は誰か」

 信玄が問うと、伝令はすかさず

「軍監曾根内匠助昌世殿御自ら」

 とこたえた。信玄は馬を励ましながら

「よろしい」

 と大きく頷いた。


 そのころ氏照は武田の小荷駄隊に鉄炮を射かけた綱成隊を何とかして陣所に回収しようと躍起になっていた。このまま放置すれば、甲軍との乱戦にもつれ込むのは時間の問題であった。そうなる前に綱成を陣所に引き戻し、甲軍に対陣を強要して小田原本隊との挟撃策を成功に導かなければならない。

 焦る氏照は

「わしが自ら綱成殿の陣所へ参る」

 と息巻いて見せたが、馬廻衆がこれを引き留めた。仕方なく伝令を飛ばしても綱成からは

「貴殿も早う参陣せよ」

 という武辺一辺倒の回答が返ってくるばかりだ。そうこうしているうちに淺利信種率いる西上野衆が武田の小荷駄衆と綱成隊の間にあれよあれよという間に割って入ってきたのである。氏照は馬廻衆に止められて自ら綱成陣所に赴かなかったことを悔いた。既に前線は整理不能の乱戦状態に陥っていた。

 慎重だった氏照を励ましたのは

「敵方の大身の武者を鉄炮にて撃ち落とした模様。西上野箕輪城代淺利信種と見得申し候」

 との一報であった。

 氏照はその報告を耳にするや俄に力を得て

「小田原本隊との挟撃が成らなかったのは不本意ではあるが、戦には勢いというものがある。この機を逃すな。押し出せ」

 と朝令暮改して前進を下知すると、北条勢は恨み重なる甲軍相手に一斉に喚き掛かったのであった。

 

 信玄は本営にあって峠を駆け上がっていた。甲軍本隊が峠の高所に登り切るまで今少しの時間が必要であったが、このままでは反撃に転じる体勢を作るより先に西上野衆が総崩れしかねない。

「関八州の名族千葉氏が、北条如き他国の兇徒に靡かれるとはこれ如何に」

 信玄は峠の高所から攻め下る北条方の鋭鋒を少しでも鈍らせようと、大きな紙の漏斗をその場でこしらえて大音声だいおんじょうで鳴る侍を選抜し、風上から呼びかけさせた。これによって北条麾下千葉氏の動きが幾分鈍化したとも伝えられている。

 だがこういった小手先の技ももう必要がなくなった。小荷駄衆に引き続いて志田峠を登り切った山県三郎兵衛尉昌景率いる兵五〇〇〇が、取って返して北条勢に横入よこいれしたのである。北条勢は浮き足だった。一度は戦域を離脱した敵衆が取って返して襲い掛かってくるなど、考えもしていなかったのだ。

 暦年の激闘で鍛え上げられた甲軍は、陣を崩した北条の隙を衝いてあっという間に高所へと駆け上がり、西上野衆や横入した山県三郎兵衛尉の部隊に合力して、乱戦する北条方に一斉に打ち掛かったのである。

 そのころ氏照は、定見もなく綱成に引き摺られるように乱戦に及んだ自らの采配を悔いていた。

 やはり小田原本隊が戦域に到着するを待って、陣所を固めておくべきであったのだ。時間を戻すことなどかなうはずもないが、返す返すも口惜しい。我ながら下手な采配を振るったものよ。今更本陣に引き返してもどうなるものでもなかろうが、と氏照が後ろを振り返ったときである。

 氏照は自分の目を疑った。

 ついさっきまで絶対的優位に立って布陣していた峠の頂に、今は信玄がそこに在ることを示す孫子旗が翻っていたからである。

 今や形成は全く逆転した。

 北条勢は敵の小荷駄衆がどうとか西上野衆がどうとかなどと言っておられる状況ではなくなっていた。北条方は三〇〇〇とも数えられる戦死者を出して壊滅したのである。このために、戦域へと急いでいた氏康氏政父子は軍を止め、甲軍が本国に撤退するのを指を咥えて見送るよりほかなかった。

 まさに通り一遍の勝利にとどまらぬ、甲軍の圧倒的勝利であった。


 さて戦後。

 本戦を終え帰国した信玄は、躑躅ヶ崎館において昌秀に

「荷駄を随分と打ち棄てたそうであるな」

 と問うた。

 太刀持ちの奥近習は昌秀が譴責けんせきされているものと勘違いして

(如何なる処分が下されるや)

 と他人事ながら青い顔をして冷や汗をかいたが、当の昌秀はいつものように涼しい表情をしながら

「長征で傷んだ糧秣など北条に返してやりました」

 と言ってのけた。

 信玄はそれを聞くと、青ざめた表情ではべる近習共に斯くの如く語った。

「源左衛門尉ほど、此度の戦の意味を理解していた者は他におらぬ。知行宛行ちぎょうあてがいが見込めぬ以上、軍役諸衆には物品を給付して報いるより他にない。傷んだ糧秣など欲する者があろうか。また、武具を賜った侍が武道に励まぬ道理があるはずもない。並みの小荷駄奉行ならば、分別なく全ての荷駄を持ち帰ろうと励んで、かえって全ての荷駄を失ってしまうところであるが、源左衛門尉ほどの巧者となると何を棄てて何を拾うべきか、このように分別が利くのだ。過半の荷駄を棄てるのに些かの躊躇もない。これこそ余が源左衛門尉を小荷駄奉行に任じた所以である。本戦の勝利のうち、九分はまことに源左衛門尉の分別によるものだ。

 汝等近習は、余が昌秀に感状を与えたことがないことをいぶかしんでおるだろうが、この戦巧者に下手に感状など下して他家に仕官されては、得がたい人材を好んで流出させるようなものだ。後嗣の禍根ともなろう。源左衛門尉に感状を与えないのはそのような余の心構えによるものだ

。皆も源左衛門尉のように、分別というものをよく心得よ」

 と、かえって昌秀を激賞したのであった。


 工藤源左衛門尉昌秀が甲斐名族内藤氏の名跡を継ぎ、修理亮しゅりのすけ受領名ずりょうめいを授けられたのは本戦直後のことである。 戦死した淺利信種の後任として、内藤修理亮昌秀が箕輪城代に任じられる人事も併せて公にされた。昌秀に対する、信玄の深い信頼が窺い知ることが出来る人事である。

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