第四章(将軍からの使者)

 三増峠における大敗を契機に駿東方面における北条方は防戦一方となり、今や辛うじて深沢の一城を支えるのみとなっていた。北条氏康氏政父子は先年の信玄による関東侵攻以来、打倒武田の執念に燃える驍将ぎょうしょう北条綱成を深沢城に入れて堅固に守らせ、地黄八幡じおうはちまんの猛将もよくその期待に応えた。しかし退勢覆すべくもない。

 後詰を得られぬまま十重とえ二十重はたえの包囲戦を耐えていた城方に、甲軍から一通の矢文が射込まれてきた。


 氏真と信玄は親戚の縁が深かったが、氏真は若輩で思慮が足りなかったせいか、又はこのように滅亡の相があったものか、信玄との親交を絶って旧誼きゅうぎを忘れ、あまつさえ甲陽の仇敵長尾輝虎(上杉謙信のこと)と結び武田を滅ぼすべく戦策を企てたことは一再ではない。

 こちらは武器を曲げて堪忍していたが、氏真がややもすれば虎狼の心を抱き、呉越の如き抜きがたい怨念を含むことは了解できない。期せずして駿河に乱入し、氏真は防戦一方敗退、駿河勢を悉く撃砕し永年の遺恨を一時に散じた。

 氏真不行跡の一端を挙げれば、天道を恐れず仁義を果たさず、文武を疎かにしてただ酒宴や遊興にのみ興味を示すと聞いている。諸士、百姓ひゃくせいの民の苦しみを知らず諸人から受ける嘲笑を恥じることもなく、我意に任せほしいままに振る舞うようでは、どうして国家や人々を保つことが出来ようか。全く信玄が氏真を滅ぼそうというのではない。天罰を受けて自ら滅びるのだ。


 この長文の矢文は小田原に届けられ、その文面によってではないだろうが、氏康氏政父子は深沢開城を信玄に打診した。武田による駿河支配を了解した旨の外交的暗示であった。

 このころ北条氏康の病状は極度に悪化していた。嫡子氏政に家督を譲って十余年、隠居の身にあった氏康であったが、それなど名目上のことに過ぎない。小田原の兵馬の権は依然氏康が掌握していた。その氏康が倒れたのである。

 隠然として政治力を保っていた氏康の危篤は、小田原勢から武田に対する継戦意欲を奪い去ってしまった。駿河を巡る甲相の、二年にわたる相克は収束を迎えつつあった。


 信玄が駿河支配を確立した元亀二年(一五七一)九月、衝撃的な報せが国中を駆け巡り、それは信玄の耳にも達した。

 使僧によれば、浅井・朝倉との抗争を繰り広げていた信長は、彼等に合力し、たびたび信長に楯突くことのあった比叡山延暦寺を万余の軍で包囲し逃げ道を塞いだ上で、或いは命を乞い、或いは御仏みほとけ来迎らいごうを頼みとして読経する声を無視し、僧階の上下、老弱、女子供問わず焚殺ふんさつしてのけたというのである。伝教大師最澄による開寺以来八〇〇年の伽藍は焼け落ち、数万巻の仏典経典が灰燼に帰したというのだ。嬰児の如く四肢をすぼめた炭化遺体が幾万柱も遺され、酸鼻を極めたその焼け跡はさながら地獄絵図の如き様相であったという。

「縁戚を取り結ぶ相手とはいえ、いにしえの平相国しょうこく(平清盛)にも劣る天魔の所業。天台てんだいの座主ざすにして曼珠院まんじゅいん門跡覚恕かくじょ法親王ほっしんのう不在を見計らっての暴挙と見受けられる。余は永年仏門に帰依し、宗派の別を問わず庇護を加えてきた身である。この上は天台座主をこの甲斐国にお迎えし、叡山を国内に再興しよう」

 信玄はそう宣言して、幾人かの手練の侍衆を流亡中の覚恕法親王の許に遣わし、甲斐入国を支援した。この後、甲斐国内における叡山再興は紆余曲折を経て結局は頓挫したものの、武田の庇護を受けた覚恕法親王は信玄の権僧正ごんのそうじょう任官に手を尽くすこととなる。


 信長による叡山焼討の報に接したのと同月、信玄の許に征夷大将軍足利義昭からの使者が密かに派遣されてきた。

 幕府使者は将軍御内書を携えていた。そこには


 織田信長は将軍のお供をし、最初の二三年のうちは忠義を尽くしていたが昨年七月に京都を攻め取り、三好を倒して自分の被官を京都所司代に配した。

 また畿内はおろか丹波、播磨、若狭、丹後にまで討ち入り、このごろは将軍を殊の外侮っている。将軍の前で飲酒しては盃を突き出すようなことをするし、茶を飲み残したら「これを将軍に飲ませよ」などと言い、近衛前久殿に対しても「おい、近衛」などと言って暴言を吐くのである。

 この信長を倒されたい。


 とあった。

 信玄は使者としてやってきた幕閣との面談を前に、将軍御内書と題するこの書面を一読して驚きを隠せなかった。公儀からの上洛要請を畏れ敬ったものではない。このような幼稚な駄文を届けるために、幕閣は遠路を押して京都からこの甲斐国にまで下向してきたのかと思うと、そのことに驚きを隠せなかったのだ。

 信玄は傍らに控える土屋右衛門尉うえもんのじょう昌続まさつぐに対し、不機嫌そうに

「見よ」

 と、この書面を手渡した。土屋右衛門尉は御内書を一読するや顔を真っ赤にして

「御屋形様に御上洛を促す必然性が、この書面からでは読み取ることが出来ません。それに、個人的な恨み辛みを晴らすために御屋形様の力を利用しようという賤しい心根を隠す素振りすらございません。

 如何に御公儀からの御内書とはいえ、これでは御屋形様に対しあまりに無礼。断って追い返してしまいましょう」

 と、御内書を破り捨てんばかりに吐き捨てた。

「いみじくも申したり右衛門尉。上洛ともなれば我が軍役衆の負担も自然大きいものとなろう。余の上洛を必要とする大義が、この御内書からは読み取ることが出来ぬ。諸人が辛苦を押して遠征に従う大義がないのだ」

 本来武田家は、鎌倉公方の統制に服して在倉ざいそう(鎌倉公方在所である鎌倉に出仕すること)する家柄である。公儀の歴年の政策を排してまで武田家当主に上京を命ずる理由が

「口の利き方が悪い信長を討て」

 などと言う軽いもので疎かに在京奉公に及んでは、引率していく国内軍役衆の不満を如何に信玄といえども抑えられる道理がない。

 もたらされた将軍御内書の中に、公儀が歴代採用してきた政策を一変させる大義を期待していた信玄にとって、この幼稚な駄文は期待外れもいいところであった。不機嫌になったのはそのためだ。

「だが兎も角も、御公儀よりの使者であり遠路はるばる甲斐に下向してきたものでもあるので、饗応きょうおうして御口上を賜ることにしよう」

 信玄は饗応の席で、御内書には書かれていない将軍義昭の生きた声を聞こうと考えたのだ。もしかしたら上洛の大義が、口頭で示されるのではないかと期待したのである。

 だが幕閣との面談もやはり、信玄を失望させるものであった。

 躑躅ヶ崎館の広間にて饗応した際、幕閣は御内書に書かれた内容を超える話を信玄の耳に入れるわけでもなく、そういったものに期待している信玄の心中を察しない朴念仁ぶりを発揮したにとどまらず、指先に付いた汁物の汁を頻繁に畳で拭う不作法を働いたといわれている。

 信玄は幕閣がかかる不作法を働く様を横目に見ながら、信長が殊の外将軍以下を侮る理由を理解した。

 要するに

「兎に角我等は偉いのだ」

 と権威を振りかざして、その振る舞いに実の伴わない将軍以下幕閣を信長は侮っているのである。

 信玄は幕閣に対し、上洛する旨を確約することなく

「いずれ折を見て上洛し、御公儀に存分に馳走致します」

 というような紋切り型の回答をした。

 幕閣は信玄上洛の確約を得られなかったことで残念そうな表情を見せながら京都への帰路に就いたのだが、上洛の大義を得ることも出来ず無念を感じたのは寧ろ信玄の方であった。

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