第四章(三増峠の戦い)‐五
この度の戦は一体何だったのだろう、というのが、末端甲兵の等しく思うところであった。北条方とまともに干戈を交えたのは別働隊の郡内勢だけであった。本隊は甲府出立以来長い行軍を経て、小田原勢と一戦すら交えることなく帰国の途に就いている。敵勢が討って出てこない以上、戦いのしようもないのであるが、それにしても城一つくらいなら攻め落とせたであろうに。
諸人、口にこそ出さないが、思うところは一致していた。
その中で、小荷駄を曳く夫丸達の辛苦は頂点に達していた。軍役衆が各地で略奪し、膨れあがった莫大な量の物資を運搬していたからである。
「普通は国に帰るときにゃあ、いくらか荷駄が軽くなってるもんだが、今回はまるで逆だ」
或る古い夫丸は、帰国のみちすがら、大汗をかきつつ上役の目を盗んでは愚痴をこぼしたのであった。
この間、甲軍本営には百足衆が引きも切らず出入りしていた。
信玄は馬上において、伝令がもたらしてくる小田原勢の動きに逐一耳を傾けていた。
「滝山城に集結したのは玉縄城将北条綱成、鉢形城将北条氏邦と
「小田原に動きあり。氏康公本営、小田原を発したとの報せあり。その数およそ二万五〇〇〇」
翌日には
「滝山勢、三増峠に集結しつつあり。その数およそ二万」
との報告がもたらされた。
信玄は自ら百足衆に対し
「敵の大将は誰か」
と問うた。
すると百足の指物を指した若い侍は
「それが・・・・・・、物見は分からぬと申しております」
と歯切れが悪かったので、太刀持ちの武藤喜兵衛が
「再度物見を走らせてから報告してくるのが道理であろう」
と叱責したが、信玄は
「無用だ」
とこれを制止した。
「およそ統率のとれた軍団というものは、その発する雲気によって何処に本営を置いているか、通常は見分けがつくものだ。
滝山から討って出た北条勢、烏合の衆と見える。物見をして本営とその他の見分けがつかぬという事実がそのことを示しておる。何度走らせても同じことであろう。喜兵衛、ようく覚えておくがよい」
滝山出陣の軍を成す玉縄城将北条綱成といえば、当時河越城将として上杉定朝の猛攻に耐え抜いたばかりか、後詰の氏康と共同してその軍勢を大いに破り、勇名を馳せた河越夜戦の猛将である。
「名目上の総大将は氏照であろうが、あれでは綱成を抑えること能うまい」
信玄はそう呟いたのであった。
同じ頃、氏照は滝山、玉縄、鉢形の各城兵を糾合して帰国の道中にある甲軍を、つかず離れず追っていたが、
「小田原から猛追は控えよと固く命じられておる。綱成殿に伝えよ。我等が突出すれば小田原衆との挟撃の機を失う。先頭を譲れ、と」
氏照は苛立ちを隠すことなく怒鳴りつけるように伝令を飛ばしたが、綱成の猛進は止まることがなかった。その間も物見から報告がもたらされる。
「甲軍は小荷駄を先頭に三増峠に差し掛かりつつあり」
との報を得た氏照は
「あれなど信玄坊主の罠だ。自らの小荷駄を餌に我等を引きつけようとしているのであろう。児戯に等しい。小田原本隊が到着するまで高所の陣を維持し、本隊との挟撃が成るまで自重すべしと各隊に伝えよ」
と伝令したが、玉縄勢の陣から返ってきた言葉は氏照を酷く怒らせ、次いで落胆させるものであった。
「絶好の機会だ。我勝てり。貴殿も後れを取るな」
峠の高所で待ち構える北条勢を横目に見ながら信玄は
「源左衛門尉に伝えよ。走れ、と」
と伝令すると、甲軍は突如
「走れ!」
と、有りっ丈の声で夫丸達に呼ばわって回った。
「長襷のない荷駄は全て道の端に打ち棄てよ!」
夫丸達はあらかじめ指示があったとおり、長襷の括り付けられていない荷駄を打ち棄て、長襷があっても荷車が破損したり駄馬が潰れた荷駄は容赦なくその場に打ち棄てて走り始めた。手の空いた夫丸は次々と他の荷車に取り付き、合力して荷車を押したり駄馬を励ましたので、車輪が脱落したり潰れる駄馬が相当な数に上った。工藤源左衛門尉昌秀は、打ち棄てられた荷駄には目もくれず
「走れ! それ走れ! 運べぬ荷駄は棄てて道の端に寄せろ!」
と小荷駄衆に呼ばわって回った。
夫丸達の耳に、鉄炮の轟音が、次いで鬨の声が聞こえてきた。何発かの弾が荷駄に命中した。
「北条が攻めてきた」
「こっちを狙っていやがる」
「それ、逃げろ」
夫丸達は口々に叫びながら猛然と走った。工藤昌秀はその間も
「走れ! 走れ!」
「決して止まるな!」
と小荷駄衆を励まし続けた。
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