第四章(天台座主沙門信玄対第六天魔王信長)‐三
「それはなフロイス殿」
フロイスの期待に相違して、信長の眉間に一層深い縦皺が刻まれた。
「テンダイノザス・シャモン・シンゲンと書かれておるのだ」
信長は続けて
「叡山を焼討した余に対する当てつけよ」
と、普段の甲高い声に殊更どすを利かせて呟いた。
フロイスは、信長の気を紛らわせようとした自分の行動が、かえって信長の神経を逆なでしたことに気付き後悔したが、自身の配下に対しては苛烈な信長であってもフロイスに直接怒りをぶつけるようなことは流石にしなかった。代わりに苛立ちに満ちた怒声を
「右筆!」
と呼ぶ声に込めて右筆を呼び寄せた。
信長は信玄が退っ引きならない決戦の決意を示したことに対して、もはやこれ以上の時間稼ぎを諦めるより他にないことを悟り、
「武田との決戦は避けられぬ」
という事実を将兵に示し、彼等の士気を鼓舞する目的で、自らも信玄との断交を宣言したのであった。信長はその断交状の中で、信玄五箇条の悪行
一、父信虎を追放し、嫡子義信を弑虐した他、一族の多くを
一、自身の甥今川氏真を追放し、駿河を奪った罪
一、小田原攻めにおいて城下を焼き払い、無数の
一、諏方頼重を弑虐したにもかかわらず、その娘を側室とした罪
一、俗体でありながら大僧正を僭称し、他国を侵略して民を害し、破戒を尽くして仁義礼智信に背く行為をなした罪
を指弾した後、叡山焼討については
そして最後に、書簡の包み紙に
「
と表書きさせて信玄に返書したのであった。
フロイスはこの両者の書簡の遣り取りに興味を抱き、また昂奮した。
邪教の庇護者信玄が、彼等宣教師の信ずる神の教えの一端を理解し布教を許してきた信長に楯突き挑んできた、という事態に昂奮したというのもあるし、なによりそれ以上に、
「偶然訪れたに過ぎないこの国で、今まさに歴史の分水嶺に立っている」
ということを、敏感にも嗅ぎ取ったことがその昂奮の所以であった。
なのでフロイスは、この応酬の模様をイエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルに書簡で報じている。
信長からの返書は、
「第六天魔王信長」
という表書きに見入っていた。第六天魔王とは、
信玄は上洛の大義に叡山復興を掲げていた。第六天魔王という表書きは、信長が天台座主沙門信玄による叡山復興を妨げる決意を込めて特に書かせたものであろう。だが、第六天魔王は所詮、釈尊に蹴散らされる存在でしかないのだ。
病床に伏せる信玄の頭脳は、衰えゆく肉体と反比例するように冴え渡っていた。
もはや信長が取るべき道は、岐阜籠城か甲軍に対して野戦を挑むより他になかった。家康を滅ぼすか組下に取り込んだ後、岐阜に籠もる信長に後詰する勢力が他にあろうとは思われなかった。翻って信長が、無二の一戦と覚悟を定めて野戦を挑んできた場合、信長は狭隘な地に木柵、土塁などを建てて防御陣地を構築し、出来るだけ我が方をそれ近くに誘引して叩くであろうことが予想された。
そうなれば信玄の思う壺であった。
信玄の脳裡には、土塁と木柵の背後に隠れた織田勢が、蜘蛛の子を散らすように潰乱していく様が、はっきりと思い描かれていた。
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