第三章(八幡原の戦い)‐六
乱戦の中、或る越軍一隊が気勢を上げて典厩信繁の部隊に躍りかかってきた。
二度までも武田を大破しながら、信玄によって北信を逐われた村上義清その人である。
彼等北信衆は口々に
「信州侵略の
と怒号しながら激しく信繁の一隊に挑み掛かったが、典厩信繁率いる
政虎は馬廻衆に対し
「あの敵の一隊の将は誰か」
と問うと、馬廻衆は
「信玄舎弟典厩信繁との由。交戦中の村上義清殿から御注進あり」
とこたえた。
「なるほど、あれが信玄名代として信濃に歴戦し、文武に秀でる名将と名高い典厩信繁か。
見よ。誰一人として陣を乱す者がおらぬ。よく人心を掌握しているのであろう。
亡くすに惜しい将ではあるが、凶徒の
と下命するや、見る間に越軍が信繁の部隊に
信玄は典厩信繁の一隊が、眼前において越軍と死闘を繰り広げている様子を歯噛みしながら観戦するよりほかなかった。
出来れば自ら押し出して敵の重囲に陥りつつある信繁を救い出してやりたかった。だが、かかる軽率な行為は自らの危険と引き換えに信玄を救おうとしている信繁の意志を無駄にすることに繋る。
妻女山攻撃隊がこの戦域に到着し、越軍に鉄槌を下すまでは、本隊は鉄床としてこの場に踏みとどまらなければならないのだ。
「挟撃策さえ成れば、この戦いは必ず勝てる」
と言う信繁の言葉が信玄の脳裡にこだまして、弟を救うためともすれば前進の采配を振るいそうになる自らの腕を、信玄は抑えた。
その時。
信玄は、信繁一隊に走った動揺を見逃さなかった。乱戦の中心部から波濤のような喚声が上がった。その途端、それまで綻びを修正しながらなんとか陣形を保っていた典厩信繁一隊が俄に陣を乱し始めたのである。
信繁麾下武川衆の伝令が越軍の重囲の一角を破り、単騎信玄本営に躍り込んで言った。
「注進! 典厩信繁様、
信玄はそれを聞くと、反射的に床几を立ち上がりそうになった。
足許の大地が崩れ去っていくような錯覚に襲われたのだ。或いは
危機にあって旗本衆に動揺を見せられないという自制心と、信繁の死を無駄に出来ないという思いが、辛うじてその腰を床几に据えさせていた。
(これからどうすれば良いのだ)
顔にも口にも出さなかったが、信玄は片腕とも頼む信繁を失ってこれまで抱いたことがないほどの前途の不安を感じていた。
「申し開きようがございません」
信玄本営にあり、その傍らに控えていた勘助は顔を上げることが出来なかった。自らの献策が見破られたことで味方を危機に陥れ、あまつさえ信繁を殺してしまったのは自分だという自責の念に駆られていたためであった。
「勘助。何を詫びることがあろう。策の成否は未だ定まってはおらんのだ。馬場民部率いる別働隊の到着まで持ち堪えることが出来ればこの戦、必ずや・・・・・・」
勘助は信玄が言葉を終える前に鑓を取り、馬上の人となった。
「御屋形様、御免!」
勘助は信玄が制止するのも聞かず、自ら乱戦の中に単騎駆け入ったのであった。
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