第三章(八幡原の戦い)‐七

 八幡原の死闘から三十年。

 曾て甲越の死闘が行われたその地に立ったのは、天下人豊臣秀吉その人であった。

 小田原の仕置しおきを終えた豊臣主従は川中島八幡原の曠野に立ち寄り、地元に住まう古老が妻女山や犀川、千曲川を指差しながら死闘の一部始終を御伽おとぎするのを聞いていた。豊臣幕僚は口々に、信玄政虎双方の武略を褒め讃えた。優れた大将の武功に耳を傾けるのは、武将としての当然の嗜みであった。

 しかし秀吉は、諸将の称賛の声を尻目にして、ひと言不機嫌そうなふうを示しながら、

「はかのいかぬ戦をしたものよ」

 と唾棄するように陳べ、満座を白けさせたといわれている。

 八幡原の戦いが行われた当時の、この地が有していた戦略的価値を体感したことがない秀吉は、古老や幕僚が自分を差し置いて信玄政虎の武略を称賛したことがよほど気に入らなかったのであろう。

 だが東国戦線を戦ったことがない秀吉が、川中島が当時持っていた戦略的重要性を理解できなかったとしてもそれはやむを得ないことである。秀吉は本戦が行われたのと同じ頃、信長麾下として尾張統一戦線の一角を担っているに過ぎなかったからだ。

 よしんばこのとき、この八幡原において、史実と異なり政虎が越後防衛に賭ける乾坤一擲けんこんいってきの覚悟を内外に示さなかったならば、信玄は遠からずこの地における支配権を確立していたに違いない。

 信玄は信越国境付近に巨大な橋頭堡を築いただろうし、そうなれば越後春日山の命運はその後二三年の内に窮まっていただろう。

 信玄は越後を破り、北辺の安定を背景にして、さしたる統一勢力を有しない越中能登を一気呵成いっきかせいに席巻したに違いない。

 その先には「百姓の持ちたる国」と呼ばれた加賀がある。一向宗の元締めたる顯如けんにょ光佐こうさの妻は、信玄正室三条の方の姉であった。このような縁戚関係もあり、後年の同盟関係を見るまでもなく、信玄と一向宗の親和性は高い。

 宗教勢力の合力を得て、東国、北陸の一大勢力にまで成長した武田の侵攻を、越前朝倉義景は幾許いくばくも阻止することは出来なかったであろう。

 北陸道西進を狙う信玄の戦略は、本戦に先立つ四〇〇年前、木曾義仲が奔ったのと同じ道標であった。或いは信玄は、旭将軍木曾義仲のように一気に帝都へと駆け上がる己が姿を夢見たのではなかったか。

 

 一方の政虎は本戦において信玄の頸一つを狙っていた。

 もし政虎が思惑通り本戦において信玄の頸を討ち取っていたならば、向背の定まらない甲信国衆が一斉に武田に叛旗を翻すことは疑いのないところである。

 後継者義信による支配は大きく揺らぎ、桶狭間において父義元が倒れた後の今川氏真のように、内訌ないこうの処理に右往左往させられた挙げ句、民心を失い国力を磨り潰したに違いないのである。八幡原において信玄が討死うちじにし、武田が敗れ去っておれば、武田家は後年今川氏真を見舞ったのと同様の運命を辿っていたことであろう。

 政虎は関東管領としての威勢を背景にして、武田家の支援を失った小田原北条氏を早期に討滅し、関東は京畿に先立って戦乱の世を脱しただろう。

 そうなれば政虎は、西国諸勢力の生殺与奪の権を握ったも同然であった。


 信玄にとって川中島は上洛への足がかりだったのであり、政虎にとっては国防上絶対敵方に譲ることの出来ない地域だったのである。

 

 いずれにしても天文年間から永禄初年当時、川中島が有していた戦略的重要性は計り知れない。

 川中島を巡る甲越の一連の戦争は、後世語られているような、単なる信州北辺の支配権を争う局地戦などでは断じてなかった。「はかのいかぬ戦」どころか、それは東国の一地域にとどまらず、その後の日本中世史すら規定した歴史的事件であった。

 後の天下人は、両雄に対する称賛に嫉妬するあまり、自分の運命にも知らずのうちに関わっていた川中島における一連の抗争の意味を積極的に理解しようとはしなかった。

 だから彼が「はかのいかぬ戦」などと揶揄したとしても、無理からぬ話ではあったわけだ。


 兎も角も・・・・・・


 双方の将の思惑を知ってか知らずか。

 甲越双方の将兵は、文字どおりの死闘を繰り広げていた。

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