第三章(八幡原の戦い)‐八
或る
あまりに激しく大地を叩くので、鑓の穂先は或いは曲がり、或いは柄から脱落した。それでも彼等は地面を叩くことを止めなかった。大地を叩く衝撃は柄を伝わり手指に響いた。長柄隊諸衆の手からは、既に感覚が失われていた。
敵が放った矢弾が隊列に着弾する。長柄衆の最前列員が櫛の歯を引くようにその数を減じた。
二段目以降の列員は、欠けた穴を埋めるために矢弾を恐れず「えい、おう」と声を揃えながら最前列に進み出た。
やがて、敵の長柄衆と鑓合わせが始まった。
筒衆が温まった銃身を冷ましている間、銃撃が止む間隙を埋めるために、弓衆は次から次に矢を
あまりに弓を酷使したために、取り替えたばかりの
弦の交換が間に合わぬと見ると、弓衆でありながら弓を捨て、太刀を構え果敢に
銃撃が冷め、再び銃撃出来るようになったあかつきには、この銃弾によって必ずや仇を討ってやる。
筒衆の目はそう言わんばかりに燃え上がっていた。
その筒衆の目の前で、彼を護衛するために組討を挑んだ弓衆の、頸と胴が離れた。
麾下軍役衆を引率して参陣した騎馬侍。
手の者が討たれて次々に数を減らし、敵中に深いため退くも
その騎馬侍はこれを最期とばかりに、暦年鍛えた
馬を乗り潰し
或る年老いた徒士侍は、味方とはぐれて孤立していた。
もはや手持ちの鑓を喪った彼は、周囲を敵勢に取り囲まれ一本の樫を背に太刀を構えていた。
老兵の
老兵は樫の木の後ろに身を翻し、鑓は樫の
鑓を引き抜こうと必死になっている敵に、老兵は一太刀浴びせて斬り捨てた。そのうちに、老兵の身内と思しき若い侍が一隊を率いて来援した。
老兵は肩で息を
今や八幡原は、敵味方合わせて万を超える大軍で溢れ返っていた。諸人が踏みならす芝からはもうもうと
銃声、鬨の声、途絶える
個々は己が生死を賭けて争い、足軽隊将、侍大将はそれらを励まして或いは声を涸らし、或いは自ら鑓を振るって戦った。
身分の大小を問わず、双方誰も戦場から退こうとしなかったし、味方を裏切ろうとする者もいなかった。それぞれの軍兵は、あたかも主君の意志が乗り移ったかのように、勝利を得るための戦いを続けていた。
死闘は、八幡原のそこかしこで繰り広げられていたのであった。
乱戦の中、
敵味方問わず活路を見出すために或いは進み或いは
だがこれも乱戦の一幕、片隅の出来事に過ぎず、死場所を求める老武者には物足りなかったものか、彼は不意にしわがれた声を振り絞って
「我こそは武田の足軽隊将にして信玄公軍師、山本勘助入道
と
勘助は信玄が世に
少しでも名のある大将を討ち取って手柄を欲する越軍諸衆を自らの身辺におびき寄せ、本営に対する圧力を少しでも弱めようと考えたためこのように呼ばわったものであった。
越軍一隊はこの声を聞くや
「敵の足軽隊将だそうだ」
「
「信玄軍師らしいぞ」
と各々合力し、声の主
乗馬を喪って徒立ち、鑓を折って
老齢且つ跛行の武者は、
それまでは鑓を構えるだけで両者の一騎討ちを見守っていた周囲の越軍諸兵は、既に勝敗は決したと見て暴れる老武者を一斉に押さえにかかる。遂に手足を制圧された勘助は、越後の兵に頸を授けたのであった。
一騎討ちを制した越後兵は、疲労のためにしばしその場に座り込んだ。彼が手にする山本勘助の頸は、その隻眼が見開かれたままとなっていた。
やがて越後兵は、その頸を高々掲げるや
「坂木
と呼ばわったのであった。
本陣にて床几に坐する信玄の許に
「武田の軍師を自称する者が討たれたそうです」
という報が入った。
「勘助であろう」
信玄は即座にそうこたえて
「当家に軍師などという者はおらんが、およそ察しが付く。あれは自分が武田の軍師だなとど呼ばわって敵を引きつける肚だったのであろう。
またぞろ一人、勇士を喪った。惜しいかな」
と歯噛みしたのであった。
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