第二章(上野原の戦い)‐二

 明けて弘治三年(一五五七)も北信に対する攻勢で幕を開けた。昨年来内応を持ちかけていたが梨のつぶてだった葛山城に対し、晴信は武力攻撃を遂に下令したのである。これにより二月十五日、越後勢の信濃方面における前線基地だった葛山城が遂に甲州勢の手に落ち落合一族は没落した。

 北信における武田の優勢が再び築かれつつあったが、軍議において山本勘助は深刻そうな表情をしながら

「景虎はきっとかかる事態を黙認致しますまい。今度は相当の覚悟を以て出張って参りましょう」

 と発言した。

 もとよりその覚悟なくして仕掛けた晴信ではない。

「全く勘助の申すとおりだ。彼は満身に怒りを込めて打ち掛かってくるに違いない。これと正面切って戦えば相当な犠牲が出よう。各人意見があるなら陳べよ」

 と促した。

 勘助の意見はこうだった。

「ここは飽くまで野戦を避け、越軍の攻勢を受けても城に籠もり防御に徹するべきです」

 すると義信は反対意見を述べた。

「しかしそのような戦いを繰り返しておれば、一旦退いたとしても必ずや越後は出張ってこよう。やはり川中島にて無二の一戦に勝利することを目指すべきではないか」

 越軍主力撃砕を主張する義信のこの意見は、一理あるものであった。

 武田は連年北信に出兵し、或いは在地領主に調略を仕掛けていた。そのたびに成果を上げ、蚕食するかのように川中島方面に侵出してきたが、景虎が出兵してくるたびごとにその成果が無に帰するというようなことを繰り返してきた。初めて景虎と干戈を交えた布施の戦いしかり、犀川における対陣二〇〇日しかり、である。

 いずれの戦いにおいても、直前まで圧倒的に甲軍優勢であったにも関わらず、景虎が出張ってきたことによって一気に形勢が逆転するという事態を繰り返してきた。

 だが、もし景虎率いる越軍主力を撃砕することが出来れば、如何な景虎とて易々この地域に派兵することが出来なくなるに違いない。

 流石に晴信の薫陶を受けながら信濃に歴戦してきた義信である。戦陣に身を置いて日は浅かったが、戦略眼は相応のものを身につけつつあった。

 頭の中で義信の意見を咀嚼そしゃくする晴信に対し、今度は馬場民部少輔信春が発言を求めた。

 晴信は他にも意見が欲しかったのでこれを許すと、馬場民部は

「御曹司のご意見、逐一ご尤もなれど」

 と前置きしたあと、一同に語りかけるように

「我等連年川中島に出兵を繰り返しておりますのは、とどのつまり越後への出口を確保せんがため」

 と言うと、諸将頷いた。

 馬場民部は続けた。

「要するに越後をかすめ取るための出口さえ確保出来れば良いのです。出口は川中島だけではございますまい」

小谷おたり城のことか」

 晴信の問いに、馬場民部はこたえた。

「左様でございます」

 一同がどよめいた。

 小谷城といえば越後近郷と言うよりは寧ろ越中に近い。どう考えても遠回りであった。

 馬場民部の意見を聞いて義信などは

「小谷城を奪取できたとしても越後までは遠い。そのように時間をかけておらりょうか」

 と、懐疑的意見を口にするほどであった。

 しかし馬場民部は自らの意見に確信を得ているかのように

「景虎は我等が川中島方面に出兵を繰り返していることで、この方面における防備を厳重にしております。そのために我等は何度出兵しても跳ね返されるということを繰り返して参りました。

 いにしえの兵家曰く、兵は奇道なりと申します。多少遠回りでも敵の防備が手薄な箇所を衝くは戦の常道。

 ご検討のほどを」

 と結んだのであった。

「なるほど分かった馬場民部。敵は葛山城を攻め取られ、その方面に兵を集中させるであろう。その上で別働隊を小谷城に差し向けるとなると、敵は大いに慌てるであろう。 

 兵は奇道なり。全く馬場民部の申すとおりだ。主力を深志に籠め、景虎の目がそこに向いている隙に小谷城攻略を果たさん。

 一同大義であった」

 晴信が軍議を結ぶと、諸将出陣準備のため広間を散会したのであった。

 晴信は深雪を押して出陣し、北信方面における仕置しおきを実施しながらその地歩を着実なものとした。四月に入ると信越国境の雪が解け、遂に景虎が川中島方面に侵出してきたとの報を晴信は深志城において得ていた。晴信は川中島方面における防御と、小谷城攻略を目指す攻勢を両立させ、両者の連携を密にするめ全軍の指揮者として深志に在城していたのである。

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