第二章(上野原の戦い)‐一

 こういった軍議を経たので、この年の武田方による越後への調略、軍事行動の度合いは曾てない強度であった。

 昨年の犀川対陣の結果、武田方は善光寺別当栗田永壽軒の帰順以外で全く得るところがなかった。対越後の最前線基地となるべき旭山城が破却されたどころか、却って葛山城が越後側の最前線基地として築かれてしまった。越後の勢力を北信に呼び込むことになってしまったのだ。

 晴信はまず、この葛山城攻略を目指した。景虎がこの城に籠めた落合一族の落合遠江守に内応を持ちかけ、彼の帰順を得た。更に落合惣領二郎左衛門尉に対しても武田に転向するよう密かに申し向けている。

 もし葛山城が武田に転向すれば、破却された旭山城よりも越後に接近した位置に橋頭堡きょうとうほを得ることが出来る。景虎が打った一手を逆手に取ろうとしたのである。また晴信は長尾家重臣大熊朝秀に謀叛を持ちかけた。

 こういった静の後世にとどまらず、同年七月には腹心の小山田備中守虎満、信濃先方衆真田源太左衛門幸綱に対し、松代直近に所在する長尾方の尼飾城あまかざりじょうを攻略するように命令している。この軍事行動は、犀川対陣の際に締結された和約に対する明確な違犯であった。景虎は大いに怒ったであろうが、八月に入ると先に晴信に対して内応を約束した大熊朝秀が兵を集め謀叛を起こしたので、この鎮圧のために越後駒帰こまがえりに出兵を余儀なくされた。景虎の対応は素早く、謀叛は即座に鎮圧されたが大熊朝秀はそのまま領土を捨てて甲斐に遁走したし、謀叛鎮圧のために時間をいたため、尼飾城の後詰に間に合わずこれを失陥している。

 文字通り硬軟使い分けた武田の攻勢を前に、家中から謀叛人が多数出て景虎は未曾有みぞうの危機に陥っていた。事態が深刻であることを否応なく認識させられた景虎は、国内の引き締めを図るどころか却って

「嫌になった。出家する」

 などと言い出して春日山城を抜け、高野山を目指したという。しかし長尾政景他重臣の諫言を容れてすぐに復帰している。

 武田家中にも、景虎による出家隠遁いんとん騒動が伝わっていた。

 諸衆は景虎のこの行動をあざわらい、

癇癪かんしゃくを起こして隠遁を口走るなど、軽率の将がすることだ」

 などと発言したが、晴信は寧ろこういった一連の騒動に脅威の目をみはっていた。

 無論、景虎は本気で隠遁する気があったのだ、などと言いたいわけではない。もし自分が、今この時期に景虎と同様の行動を起こしたとして、一体甲斐はどうなってしまうであろうかと考えたのである。

 切り取って日が浅い信濃分郡が叛くことはまず間違いなかった。本国である甲斐ですらどうなることか、知れたものではない。

 宿老のうち何人かは、出家しようという自分を引き留めるであろうが、あるじの隠遁を奇貨として独立を企図する者も必ずや出てくるに違いないということが容易に想像された。

 景虎がそんな危険も顧みず、

「きっとどこかの誰かが引き留めてくれるに違いない」

 という多分に希望的な観測の元に、かかる騒動を起こしたものとは晴信には思われなかった。

 つまり景虎は、自分がいなければ越後が持たないこと、そして家中衆の多くが同様に認識していることを熟知した上で今回の挙に及んだわけだ。家中衆が必ず引き留めに掛かることを確信した上で今回の行動を起こしたのである。その証拠に、この隠遁騒ぎのあと、越後群臣は進んで景虎に対し起請文を提出し、却って忠誠を誓ったそうである。

「余には到底真似できない行動だ」

 晴信は舌を巻いた。

 越後が一致団結の様相を示したことによって、当分の間は調略による静の攻勢は効果を発揮できなくなるであろう。

 晴信は

「やはり越後を抜くには弓矢によるしかない」

 と改めて認識したのであった。

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