序章(二)
武田信虎は十四歳にして家督を継承した直後から、人生の大半を戦陣に過ごしてきた。信虎にとって戦場は人生そのものであった。その戦歴を、いささか煩雑ではあるが
祖父武田信昌期に、守護代跡部氏を河口湖畔に追い落として甲斐一国の支配権をようやく奪還したのも束の間、信昌は嫡男信縄を差し置いてその弟油川信恵に家督を譲らんと画策する。甲斐は文字通り父と子、兄と弟が骨肉の争いを演じる乱国状態に再び陥ったのである。
信虎は、信縄の嫡男として生を享けた。なお当初は信直と名乗り称した。
父信縄は乱の収束を見ることなく世を去り、その責務は嫡子信直に課されることとなった。彼の戦国大名としての歩みは、叔父信恵一党との戦いから端を発したのであった。
祖父と叔父は信直の家督相続直後に相次いで自然死したので、父の代から続いた「兄弟争論」はそれによって収束するかに見えた。しかし彼らは単に、父子或いは兄弟間の好悪の情だけで抗争を繰り広げていたわけではなかった。
叔父油川信恵にも子があり、統率する一党があった。棟梁にはこれら一族の安寧を保障する責任があった。敵対する兄との関係が個人的にはたとえ良好だったとしても、一族郎党の生活を保障するために必要があれば争いは避けられないものであった。
家名というものが、個人的幸福よりも厳然として上位に存在していた時代の価値観である。
叔父信恵死去後の油川一党との抗争は、永正五年(一五〇八)に信直が信恵の子、弥九郎、清九郎他、これらに合力した岩手縄美、栗原昌種等を一網打尽に掃討したことでようやく収束を見た。
しかし馬蹄に踏み荒らされた領土を感傷をもって巡検する暇は、信直には与えられなかった。彼は未だ、宗家の統一という最低限の目標を達したに過ぎなかったからだ。国内には依然、小山田、穴山、栗原、大井、逸見などの諸豪族が
宗家統一を果たした信直は、まず信恵一党に合力して抵抗を続けていた郡内の小山田弥太郎を攻撃し、翌年、自身の娘を弥太郎の子信有に嫁がせて姻戚関係を結び、これを服属させた。永正十年には、河内地方の穴山信懸が子の清五郎により殺害されるという事件が起こる。もともと駿河の今川氏親と甲斐武田氏に両属していた穴山氏は、これにより今川方に属する旨
今川は穴山の服属により甲斐侵攻の好機とみて、永正十二年(一五一五)、甲斐国内に侵入した。これに力を得た大井信達、信業父子は信直に反旗を翻し、本拠富田城に籠城した。信直は、自身の女婿とした小山田信有と共に富田城を攻撃するも敗退している。
翌十三年から今川は攻勢を強め、同年末から約一ヶ月間の攻城戦の末、郡内吉田山城を陥落させた。抗しきれなくなった小山田信有は今川と単独で講和し、信直も利あらずとみて三月には今川との和睦に応じている。
永正十六年、今井信是を服属させた信直は、本拠地を石和から西の甲府に移し、同年八月から躑躅ヶ崎館の建設に着工した。
永年抗争を続けてきた大井信達、信業父子との和睦が永正十七年に成立すると、信直は大井信達の娘を正室に迎えた。後の武田晴信実母である。
本拠地移転に諸豪族の統制を強化する目的があったことは明らかであった。信直は服属する諸衆に対し、躑躅ヶ崎門前への居住を
兎も角も信直は、「これでは示しがつかん」とばかりに自らこれを追い、都塚において栗原信重を、次いで今諏訪において大井信達及び今井信是をそれぞれ大いに破って追討したのであった。なお信直は、義父大井信達に対しては、息子信業に家督を譲り入道することを以て処断とし、それ以上の罰は加えなかったようである。
この頃、朝廷より従五位下左京大夫に叙せられた信直は、二頭の虎が合わさる形象を刻した朱印を使用し始め、名も信直から
信虎
と改めている。
とかく厄介なのは駿河の一大勢力今川氏親であった。彼は、甲斐における武田の統制が緩んだとみて、福島正成一党に軍兵一万五千人という大軍を統率させ、富士川沿いに兵を北上させた。対する信虎は、富田城に大井信達を破った直後であって、軍兵二千を召集するのがやっとであった。
福島は躑躅ヶ崎館より西方僅か一里半の龍地に布陣した。対する信虎は軍師荻原常陸介昌勝の献策を容れ、大量の
我に大軍あり
と見せかけ、荒川を挟み飯田河原にて福島正成が繰り出した先陣と対峙したのであった。
武田勢は寡兵ながら飯田河原に布陣するこの前衛部隊に激しく挑みかかり、寒風が吹き荒ぶ十月中旬の飯田河原において福島勢百余騎を討ち取ってこれを勝山城まで押し戻した。しかし全体から見れば戦果は僅少であった。荒川沿岸から駆逐された福島前衛は城塞に籠もり、龍地に陣取る本陣と共に、まさしく甲府を指呼の間に収めたのであった。
さて躑躅ヶ崎館は、その名の示すとおり、典型的な中世武家の居館であった。取り立てて強固な防護施設が備わっているわけではない。各国領主は生活の不便を甘受してでも急峻な山上に城塞を設ける時代であったが、それらと比較すれば丸裸に近い。要するに有事の際は後背に築城した
信虎は福島勢が大挙押し寄せてきたとき、臨月を迎えていた正室大井の方を、躑躅ヶ崎館北方の要害山に築いた積翠寺城に避難させていた。
危機はなお、去ってはいなかった。
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