武田信玄諸戦録

@pip-erekiban

第一章

序章(一)

 治水は国の基なり。

 岐秀元伯ぎしゅうげんぱく和尚は、「史記」五帝本紀、禹の治水事業に関するひととおりの講義を厳かな口調でこう締め括ると、本日はこれまで、と席を立った。

 それまで静かに漢籍をめくりながら聴講していた少年は、立ち去ろうとする和尚をすかさず呼び止める。

「甲府は、毎年洪水で水びたしになります」

 和尚は立ち止まり、押し黙った。

 甲斐武田家十八代当主信虎夫人、大井の方に請われ、尾張瑞泉寺ずいせんじよりはるばる甲斐長禅寺へ下向した経緯を考えると、

「当代は禹に遠く及ばぬ」

 などと口に出来る立場にはなかった。またそのような政策批判をするために招聘されたものでもない。少年の問いかけにしばし沈黙する和尚の口許に、自嘲ともとれる微笑が浮かぶ。

 和尚のこたえは

「治天の君はかくあるべし、という心構えを説いた、喩え話である」

 飽くまで一般論じゃよ、と。

 だがこのこたえは少年なりに「誤魔化された」と感じられたのであろう。それでは、とばかりにいよいよ単刀直入な質問を投げかけてきた。

「父は、禹に劣りますか」

 これまでも、請われて幾十人かの公武の子弟に漢籍、仏典などを講義してきた和尚である。いずれも字面じづらを追うことに懸命となり、授けた知識を実社会に投影する意志が芽生えるまでになお幾許かの教育と年月を要すると思われる人物ばかりであった。それらと較べると、この少年は学問の本質により近いところにいるように、和尚には思われた。少年は、目の前に横たわる現実と、与えられた知識との格差に困惑しているのだ。

「禹、堯舜の事蹟なくんば大河を治めるあたわず。汝父君の志を扶けよ」

 禹のようになりたかったら、あなたの父が堯舜のようになれるよう扶助せよ、と和尚はこたえたのである。

 だが少年は自身が禹たり得るかどうかを訊いたのではない。父が禹に劣るか否かを訊ねたのである。和尚の回答は一種の詭弁であった。和尚は、自らの詭弁に苦笑を禁じ得なかった。


「太郎殿は聡明である」

 母、大井の方が嫡男太郎の学習の進度を尋ねたとき、和尚はそう回答した。

 和尚の講義は漢籍でいえば「論語」「孟子」「大学」「中庸」などの四書、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「学経」「春秋」などの六経、所謂諸子百家の書、或いは「孫子」「戦国策」「兵書」「三略」「呉子」などに及んだ。

 太郎はいずれの講義においても師を煩わせる質問を投げかけた。その質問はどれも本質を衝いて鋭い。武家の嫡男としての自覚からか、就中なかんづく「孫子」に関する講義においては熱の籠もった問答が行われた。そういった問答が熱を帯びるにしたがって、太郎が目の前の現実と学問との間に横たわる覆しがたい格差に煩悶しているかのように、和尚には感じられた。


「勝山記」は、このころ甲斐を見舞った異常気象をつぶさに記録している。大永元年(一五二一)から天文二十四年(一五五五)の三十五年間に限ってみても、

  大雨洪水 四回

  大風   二回

  大風大雨 四回

  日照り  五回

  地震   一回

  土石流  二回

  冷害   二回

  不作   二回

  飢饉   十三回

  疫病の流行八回

がこと細かに記録されており、百姓の民は毎年の如く疫病災害飢饉に悩まされていたことが分かる。

 幼少ではあったけれども、太郎は為政者の子息として盲目ではなかった。

 我が子を喪った親が、小さな棺を抱いて野辺送りの列を歩く姿を目にしたことがある。

 白装束に身を包んだ被葬者の親は、酷く痩せ細っていた。一陣の風が、枯葉と、晩秋に至ってもなお乾き、ひび割れた大地の砂を巻き上げた。太郎は野辺送りの光景を、もの悲しい思いで眺めながら、岐秀和尚に

「あれはなんですか」

 と訊ねた。

 和尚は

「死んだ子を、冥府めいふへと送り出しているのでございます。その子の魂が迷い、この世に再び帰ってくるようなことがないよう、回り道をしては立ち止まり、あのようにして冥府へと送り出すのでございます」

 とこたえた。

 太郎は

「何故あの者の子は死んだのでしょう」

 と訊ねた。

「飢饉か、流行病はやりやまいでございましょう」

 葬列をなしている人々の顔はおしなべて土気色を呈し、頬は痩け目は落ち窪んでいた。哀しみを声高に唱えるわけでもない。葬列をなす民は、みなそれぞれに割り当てられた役割を、ただ押し黙って、静かに果たしていた。

 太郎が再び和尚に問うた。

「何故、あの者の達の子は死んで、私は生きているのでしょう」

「若君には使命がございます。何のために国主の嫡子として生まれたか、何のために学ばれているか。御自身でようくお考えなされ」

 岐秀和尚はそれだけ言うと、太郎の手を引いて寺へと帰ったのであった。


 太郎は長じて元服し、ときの将軍足利義晴の偏諱を得て

  晴信

と名乗るようになった。

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