第四章(上洛の夢――或いは妄執――の果て)‐二

「軍勢を返して何処へ行こうというのです」

「来たな。於福か」

 声は信玄の問いかけにはこたえなかった。こたえなかったが信玄にはその声の主が於福であることがすぐに分かった。突き放すような、徹底して冷たい声であった。

「勝頼のことをお頼み申しますとお願い申し上げたはずです」

「出来ることは全てした」

「何もしてはくれませんでした」

「武田の跡取りになったのだぞ」

 信玄は於福に赦しを請うように言った。かかる病身では、於福の追及を受け止めきれないと思ったためであった。

 だが、

「おぞましい・・・・・・」

 於福は不快に満ち溢れた声でそう言った。

「私も勝頼も諏方の人間です。勝頼には諏方惣領家の継承をお願い申し上げたはずです」

 信玄は、於福の最期の姿を思い出していた。

 すがるように晴信の目を見詰め、

「勝頼に諏方惣領家の継承を」

 と望みながら於福は死んでいったのだ。誰よりも誇り高く高潔で、しかも強かった諏方の姫が、最期に臨んで晴信だけに見せた弱さであった。晴信はその願いを半ば反故にして、勝頼に高遠諏方家の名跡を継がせたのである。

「出来ぬ相談だった。だが、高遠諏方家を継がせたではないか」

 信玄は、勝頼に高遠諏方家を相続させたことで赦しを請うつもりであった。

 だが於福の舌鋒は衰えることを知らず、追及はかえって激しさを増したようにさえ思われた。

「それすらもなかったことにして、我が父を滅ぼした諏方家の仇敵武田を勝頼に継がせるなど、おぞましい」

「これ以上、余に何かを求めても詮ないことだ。寿命が尽きようというのに」

「勝頼のことを思えば、御屋形様のお命など軽いものです」

「言うのう」

「私には見えます。勝頼の泣く姿が。

 たった独りで戦って、自邸に火を放ち、多くの人々に裏切られ、曠野を彷徨い歩く姿が見えます。

 かわいそうな勝頼」

「何のことだ」

「全て、御屋形様のせいです」

「今更どうしろというのだ」

「もう、どうしようもございません。この上は、今、この場でどうあっても上洛を果たしていただくより他に勝頼が救われる方法はありません」

「出来ぬ相談だと言うに。余は間もなく死ぬのだ」

 信玄は溜息に紛れ込ませるように呟いた。

「死んで責任を免れようというのですか」

 於福の声には激しい怒気が含まれていた。

「御屋形様が死のうが生きようが勝頼には関係がありません。勝頼が泣くようなことがなければそれで良いのです。

 さあ、眠っている場合ではございません。

 数多身内を殺してきたその手で、もう一度軍を西に向けるよう采配するのです。今更何人殺そうが御屋形様が地獄に堕ちることは疑いがありません。御屋形様が地獄に堕ちて、勝頼が安らかになるのであれば私には言うことはありません。

 さあ、西上の御采配を。さあ、さあ」

 信玄に於福の姿は見えなかったが、その姿は於福が死に際に見せたぞっとするような美しさをたたえて信玄に迫ってくるようであった。

「よせ於福、分かった。左様に采配する。だから今少し待て、待ってくれ」

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