第二章(砥石崩れ)‐一

 天文十九年(一五五〇)七月、武田晴信が小笠原長時と決着をつけるべく甲府を発向し村井城に入城すると、林城に籠もる小笠原諸衆は一戦すら交えることなく続々と城を脱出し始めた。このため長時は林城を放棄せざるを得ず、支城の一つ平瀬城へと逃げ込んだ。

 本拠地にしてからがこの有様だったので、小笠原領内にある深志、桐原、山家、岡田などの諸城は、もはや主君の後詰は望めぬものと諦め城兵が逃亡した。島立、浅間の二城は迫り来る甲軍に対して即座に恭順の意を示した。

 一旦求心力を失えば瓦解は急速であった。長時は諸侍の支持を失い、逃げ込んだ先の平瀬城で籠城もままならず、武田に抵抗している村上義清を頼って北信へと落ち延びていった。応永のころより信濃守護として中信を支配してきた信濃小笠原家の呆気ない滅亡であった。

 晴信は新たな支配領域に編入した中信に至り、小笠原家の面影を微塵も残さぬよう林城の徹底的な破壊を命じた。櫓、柵に使用されている木材や縄は使えそうであれば根こそぎ持ち去って他に移し、そうでないものには火を掛け焼き尽くした。かまえを崩され丘陵の中腹から頂にかけて山の地肌を晒す林城跡地には、百年にわたる中信支配の拠点として栄えた往時を偲ばせるものがなにも残らなかったといわれている。

 同月十九日には晴信が新たな中信支配の拠点と定めた深志にて鍬立式くわだてしきが執り行われ、二十三日には深志城総普請が始まっている。

 ともあれ、小笠原滅亡によって武田と村上の間で締結されていた和睦の破綻が明白となった。晴信は軍議の席において、佐久を席巻した後に一挙に村上前衛砥石といし城を陥れることを口にした。速やかなる村上領への侵攻を企図したものであった。しかし山本勘助はこれに反対した。

 勘助は

「砥石城は昨年の和睦成立以来、村上が飽くことなく普請を加え続けてきた堅城。籠城衆の士気も高いと聞きます。そう簡単には落とせますまい」

 そう進言したが、晴信は

「そうは申すが、現下義清は中野の高梨政頼と対峙している。我等が砥石城を囲んでも早急に後詰に現れることはあるまい。今をおいて好機はないと考えるがどうか」

 と諸将に問うと、若手将校などは皆、異口同音に

「御屋形様仰せのとおり、絶好の機会でござる」

 とか

「砥石など、普請を欠かさなかったとはいえ小城。一気に揉み潰して見せましょう」

 などと血気盛んな意見が諸方から飛び交った。このために、勘助や真田源太左衛門幸綱などの巧者が

「小城とはいえ侮れん。万全を期して城内に内通者を」

「周囲の城を陥れてから砥石城攻めにかかるべき」

 と慎重策を献じても途切れがちとなった。

 議論のさなか、横田備中守高松たかとしは黙して語らなかった。軍議が紛糾する中、勘助は何度か横田備中守に発言を求めるようにちらりちらりとその姿を見たが、横田は身じろぎもせず、ひと言すら発することもなかった。

 横田備中守が軍議の席で発言しないのはいつもの光景であり、それは彼の

出師すいしに及ぶか否かはあるじの采配によるべきであって、軍役衆は一旦出陣が決すればこれを最後と覚悟を定め、死闘するのみ)

 という信念に基づくものであった。横田備中守にいわせれば、主が既に出陣を決している事柄に対して異を唱えるなど分を越えた所業というものであった。勘助はそのような横田備中守の信念を知っていたし、その横田に軍議の席での発言を求めるなど、どだい無理な話だと理解してはいたが、それでもなお、晴信が砥石城攻略を企図したことが性急に過ぎると思われたので、横田備中の発言を特に望んだのであるが遂に彼はひと言も発しなかった。

 晴信は意見は出尽くしたものと見なして、九月に村上攻めの軍を起こすと宣言して軍議を終えた。尚も不安の消えない勘助は軍議の後、自邸に帰って戦支度いくさじたく調ととのえようという横田備中守高松を呼び止めた。

「此度ばかりは御屋形様にいつもの周到さがない。思うに上田原の雪辱を期しておられるのであろう。備中殿がひと言諫言かんげん申せば、御屋形様のお考えも変わっていたであろうに。備中殿ほどの巧者であれば、今が砥石城の攻めどきではないことなどご承知であろう」

 何故にひと言も発しなかったのか、と詰った。

 横田備中は

「如何にも。攻めどきにあらず。貴殿の言うとおり、簡単には落とせまい」

 いつものようにぶっきらぼうにこたえるのみであった。

「では何故黙して語られなかったか」

「常、申しているとおりでござる。戦をするかしないかは御大将の采配次第で、我等は出陣の命が下れば覚悟を決めて死闘するのみ。それこそ諸侍の勤めというものでござろう」

 横田備中のこたえに、勘助は黙り込むよりほかなかったのであった。

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