第二章(桶狭間の戦い)‐一
いったい戦国大名というものは、畿内から遠隔であればあるほど京都に対する
永正五年(一五〇八)三月、本拠地周防に加え中国、北九州六ヶ国の守護に
時の将軍義澄と管領細川澄元などの幕府首脳は、先に彼等を朝敵に指定していた負い目から帝を御所に置き去りにしたまま近江に退去し、義興はそれから十年にわたり天下の政務を執っている。
また長尾景虎も二度にわたって上洛を果たし、初の上洛では後奈良帝及び将軍義輝に謁見して、帝からは私敵治罰の綸旨を、将軍からは信濃守護職小笠原長時の本国帰還支援命令をそれぞれ受領している。
その意味では、駿遠三三ヶ国の太守今川義元が上洛を希求したとしても不思議な点はなにもない。
もともと駿河今川家は在京も在鎌倉も義務づけられている家柄ではなかった。これは、今川家が鎌倉公方の元で分治されていた関東を監視する役割を幕府より担わされていたからである。幕府に対して関東が弓引いたとき、その危急を幕府にいち早く報せるとと共に、京都を目指して西上してくるであろう関東の大軍を箱根の
したがって、その原則を廃してでも今川家に上洛を促す将軍御内書等が伝わっていない今日、永禄三年(一五六〇)五月に行われた今川義元による尾張親征を上洛戦であるとする見解に疑問が呈されており、そのことを裏付けるように、今川義元が沿道の諸大名に領内通行の調整を行った形跡も残されてはいない。
確かなことはその年、今川義元が尾張織田家の領内に侵攻したという歴史的事実である。
義元が引率した軍役衆の数についても、二万五〇〇〇から五万と、史料によって幅があり一定していないが、交戦相手である織田家に対して優勢であったことも間違いなかろう。
武田家がそうであったように、今川家も天文二十三年(一五五四)、北条氏康を交えて締結された甲駿相三国同盟の恩恵に浴しており、相模北条氏との
事実義元は緒戦において大高城に兵糧を運び込むことに成功し、丸根、鷲津の両砦を鎧袖一触屠り去っている。
一方の織田信長はどうであっただろうか。
天文十二年(一五四三)、老朽化に加え連年の豪雨によって損壊著しい禁裏の御修理料が東国諸大名に賦課されている。
このとき今川義元は他に抜きんでる五〇〇貫もの銭を拠出した。
驚くべきは信長の父織田信秀で、同じ時期に同じ名目で四〇〇〇貫という額の献金を朝廷に対して行っている。
義元の五〇〇貫も相当巨額であるが、文字どおり桁外れの額を献上している事実から、信秀在世当時の尾張織田家の強勢が窺われる。
天文十一年(一五四二)に行われた小豆坂の戦いにおいても信秀は今川義元相手に勝利しており、今川家にとって与し易い相手などでは決してなかった。
だがこの時代、家督相続を機に家勢が衰えるという現象は避けがたいものであった。
織田家においても信長と弟信行との間で骨肉の争いが演じられている。織田家の威勢は一時的に衰えた。
優勢な側に雪崩を打って
諸方に敵を抱える形成となった信長であったが、彼は冷静に義元本営の動向のみを観察していた。裏切り者や日和見主義者には目もくれなかった。
信長が義元ただひとりに注視していた頃、織田家宿老共は危急に瀕してなお軍を動かそうとしない信長に
「籠城の御準備を」
と勧めたが、信長は籠城策を一顧だにせず寝てばかりだったという。
その信長が飛び起きたのは、十九日に至り今川方の松平蔵人(後の徳川家康)が丸根砦を、朝比奈泰朝が鷲津砦をそれぞれ包囲したという知らせを受けてからであった。この二人が本営近くに在陣しているうちは、それを抜きがたいと考えての行動だろうか。
信長は
「主が動いた」
そう知って、それまで
清洲を飛び出たときには五指に足りなかった馬廻衆が、いつの間にか二〇〇〇を数える
信長は尾張国三宮熱田神宮に戦勝祈願した後、今川本営の動向を改めて探索し、これが
このとき、信長が動いたことを知った織田方の千秋四郎、佐々木政次等中嶋砦前衛部隊が、僅か三〇余の手勢で突出し義元本営に打ち掛かり、返り討ちの憂き目を見ているが、これが信長にとって勝ち運の始まりとなった。
そのころ今川勢はこの小さな戦勝の余勢を駆って近郷の村々を略奪して廻っていた。
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