第二章(桶狭間の戦い)‐二

 凡そ軍役は雑兵にとって窮屈なもので、大身の将ならば戦役全体の戦況を知り得る立場にあっただろうから、間もなく帰陣だ、いや長陣だなどの情報を入手できたし、手柄を立てれば戦後に知行宛行ちぎょうあてがいという目に見える形で恩恵を受けることが出来た。だがそのような知行宛行とは無縁の木っ端武者にとって軍役は苦労が重なるばかりであった。

 都合良く宿舎が割り当てられるはずもない。もしそのようなものがあるとしたら真っ先に大身の将が宿舎にするからで、雑兵は焚き火で冷えた手をあぶりながら野営するしかない。雨降りともなれば火を絶やさぬようにするのもひと苦労である。食料はほしいいや味噌など、保存の利く乾き物や味付けの塩辛いものばかりで味は二の次であった。あるじからあれやこれやと無理難題を押し付けられ、いざ合戦ともなれば命懸けで戦うことを強要された。しかもそんな状況がいつ終わるとも知らされないのである。

 そんな雑兵にとって、戦役中の乱取り(略奪行為)こそが恩賞であり、不満のはけ口であった。ここぞとばかりに乱妨らんぼう狼藉ろうぜきを働き、大将も寧ろ兵卒のこういった行為を推奨した。

 信長が義元本営を衝いたのは、乱妨狼藉のため雑兵が出払って手薄になっている頃のことだったという。おそらく信長は義元本営を守る兵が略奪行為にかまけて守備を疎かにしていることを知っていたのであろう。

 折から豪雨が降り始め、昼間ながら視界は甚だ悪かった。信長はこの悪天候を利用して義元が戦域周辺に張り巡らせたであろう触覚に触れることなくその懐に飛び込んむことに成功する。義元本営に居残っていた今川旗本衆は突如陣幕を破って乱入してきた正体不明の部隊に襲撃され、恐慌に陥った。

 織田方の服部小平太が本陣の幕間に乱入すると、退却しようと身の回りの準備をしていた義元に斬り掛かった。義元とは果敢に応戦し服部の膝を太刀で払ったが、傍輩ぼうばいの助太刀に参じた毛利新介によって敢えなく首級を挙げられたのであった。服部小平太も毛利新介も信長馬廻衆であったから、双方の旗本衆が斬り結んだことになる。激戦であったことが偲ばれる。

 なお義元はこのとき相当に暴れ回ったようで、頸を掻こうという毛利新介の指を食いちぎったと伝えられている。

 ともあれ、今川方の圧倒的優勢で幕を開けたこの戦役は、逆に僅か八日ほどで織田方の圧勝に終わったのであった。

 義元の命令で大高城に兵糧を運び込んだ松平元康は同城にて義元の敗報を聞いた。

 元康は当初

「虚報であろう」

 となかなかこれを信じなかった。

 当然であろう。

 尾張に乗り入れて以来、味方の快進撃が続いていた。敵方からはろくな反撃もなく、あったとしても鑓を合わせてひと揉みすれば得物えもの指物さしものを棄てて逃げ散る有様だったのだ。

 今までの経験からすれば、戦というものは凡そ大勝ちであればあるほど易かった。味方の勝ちに反比例するかのように、敵方が脆く崩れ立つからだ。今回もその例に漏れない。義元が討死うちじにしたなど、窮した敵が流した虚報に違いないと元康が考えたのも無理のない話であった。

 義元が討死したかどうかはともかく、今川方の敗北を元康が確信したのは敗残の今川兵がまばらに大高城方面に流れてきたことによる。

 元康自らそのうちの一人をつかまえて

「何処へ行くのか」

 と咎めると、その侍は

「御味方が崩れた故、駿河へ落ち延びるのよ」

 と吐き捨てて、袖を掴む元康の手を振り払い何処かへと立ち去った。

 不審に思った元康は直ちに斥候せっこうを飛ばし、信頼する手の者から今川敗北のみならず義元討死の報を得て、遂に大高城を捨て棄てることを決意し自らの本拠である三河へ遁走した。元康はそこで、累代の菩提寺である三河大樹寺に入り、

「ここで腹を切る」

 と言い出したが、当寺十三代住職登誉天室は

「禍福はあざなえる縄のごとしと申します。切腹の儀は今少し待たれるがよい。寺僧はみな、殿のために破戒をかえりみず殺生に及ぶ覚悟ゆえ、この場にて死闘なされよ」

 と励ましたという。

 元康の目には、寺舎に掲げられていた「厭離おんり穢土えど欣求ごんぐ浄土じょうど」の書付が映っていた。元康は登誉天室の言葉を聞きながら、妙に書付の文言から目が離れなかった。

 元康は旗本衆や大樹寺寺僧とともに戦って押し寄せる尾張の郎党を打ち払うことに成功した。

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