第二章(桶狭間の戦い)‐三

 敗北した今川方の将の中にあって、忠勇を示した侍がいた。尾張鳴海城将岡部丹波守元信である。鳴海城は織田方の圧力が最も強い前線基地であり、信長にとっては目の上のたんこぶともいえる邪魔な存在であった。

 今川方の野戦軍を打ち払っても鳴海城に岡部丹波が健在である限り追撃は思うに任せない。そう考えた信長は、この戦勝の勢いを駆って尾張から今川の勢力を一掃してしまおうと企て、鳴海城を包囲した。

 岡部丹波守は本国からの後詰が望めない状況下、麾下の籠城兵を励まして防戦に努め城兵もまたよく戦った。このため織田方は鳴海城を抜くことが出来ず反転攻勢は停滞した。だが如何に岡部丹波とて後詰のない籠城戦に勝ち目がないことなど先刻承知であり、秘かに和平を模索していたところ織田方より開城退去を求める矢文が打ち込まれた。

 岡部丹波は開城の条件として

あるじ義元の頸の返還」

 を求めた。

 信長は岡部丹波の忠義に感じ入り、義元の頸を丁重に首桶に封入して鳴海城に届けさせた。岡部丹波は鳴海城にて涙ながらに主義元の頸と対面したのであった。

 岡部丹波は約束どおり鳴海城を退去した。今川の主力部隊は大敗したが、岡部丹波は最後まで、何処の誰に対しても敗北しなかった。城を退去するに際しても、勝利のみに彩られた岡部一党の矜恃を示すかのように武装を解除されることなく、整然と鳴海城をあとにしたと伝えられている。

 主の首級が入った首桶を押し戴くその姿には、敗残兵の面影は微塵もなかった。却って主の頸を戴いて、これから戦場にでも赴くのではないかと思われるほどであった。

 実際岡部丹波守は駿河へ義元首級を届ける道すがら、

「武功なくして帰るを潔しとせず」

 といって、僅か一〇〇名の手勢を以て帰路にある刈谷城を襲い、城主水野信近を討ち取って駿河に凱旋した。刈谷城を陥れたことは駿河にとって本戦役における唯一の朗報であったから、義元嫡子氏真うじざねは岡部丹波守元信の忠義を激賞している。


 信玄は本戦に接し、義元の求めに応じて援兵を送り込んでいた。原則として他国から借りた兵は後衛に付くので、桶狭間村で義元が討ち取られた一部始終を見ていた者は甲州勢のなかにはいなかった。

 だが彼等が本国甲斐にもたらした情報は、間近まぢかに今川の敗北を見聞した者としての生の声が含まれていると思った信玄は、従軍した軍役衆を躑躅ヶ崎館に招致して

「伝聞でも構わぬのでその時の様子を聞かせよ」

 と直接聴取に当たった。

「信長公は籠城策など一顧だにせず最初から討って出る肚だったとお見受けします」

「何故そう思ったか」

「清洲に兵を集めておりませなんだゆえ」

「居城に兵を集めなかった・・・・・・」

「はい。信長公は清洲を討って出た際、殆ど単騎だったと聞き及んでおります。籠城する気であれば兵を居城に集めているはずです。単騎討って出るような挙に出るはずがございません」

 信玄はそれを聞くと

「よく分かった。大義であった。さがってよい」

 そう告げた後、黙って目を閉じた。尾張の僧が語った信長の姿を想像したのである。

 痩身白面の武将が出陣に際して幸若舞を舞う姿が浮かんだ。信玄の脳裡で、その織田信長の姿と長尾景虎の姿が何故か被った。

 自分よりも十以上も若い武将が籠城策に見向きもせず、果敢に討って出て海道一の弓取ゆみとりと称された義元を討ち倒した、という事実は、信玄の心中に俄然焦りを生じさせた。

 上洛への途を出し抜かれるかもしれない。

 信玄は傍らに控える勘助に

「尾張は京に近い。氏真殿には一刻も早く仇討ちの軍を起こして貰い、織田を討ち果たして貰わねばならんが、どうかなあれは」

 と、その器量のほどを訊ねた。

 勘助が今川家中の庵原安房守のもとに客分として寄寓していた経歴を知って訊ねたものであった。

 勘助はこたえた。

「それがしは氏真公が五、六歳のころに駿河を出奔した者ですゆえに、詳しい話は知りません。知りませんが、噂に聞く氏真公であれば、仇討ちは少々荷が重いと存じます。

 氏真公は剣を塚原卜伝ぼくでんに学び、歌道蹴鞠けまりの技に通じておりますが人の使いようが疎かです。当代の武将でいえば、左様・・・・・・、小笠原長時殿と似ておりますな。

 個人の武勇には優れていても、国持ちの大将としてはさて、如何なものでしょう。

 駿河一国ならばいざ知らず、三遠の国衆を束ねられるとは到底思えません」

 

 勘助の氏真評を聴いた信玄の胸の奥深くに、東海道進出という構造がちらりと浮かんだ。信玄はその構造を、簡単に振り払うことが出来なかった。

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