第二章(犀川の対陣)‐三

 義信は駿河から嫁してきた於松と大変仲睦まじかった。個人としてその事は喜ぶべきことであったが、国家間の利害が絡むとなると話は別であった。個人の情を棄てなければならないときがある。今がその時であった。義元の面目を立てることに拘泥して武田の利を失えば本末転倒である。そのあたりの表裏のことわりが、若い義信にはまだ理解できないのだ。ただ愛する妻の父、義元の面目を立てることのみに固執していた。

 御曹司として育てられてきた義信に面と向かって反駁はんばくできる者は晴信しかいない。

「義元殿の面目を大事と考えるそなたの存念は分かった。しかし当家が利を損なえば和睦にはおよそ意味がない。越後はそのような条件を示してきておるのだ。そのことは分かるか」

 晴信が諭すように言うと、義信は

「和睦が不成立に終われば義父は天下に面目を失います」

 と噛み合わないこたえを返して両者は平行線であった。

「余は武田の家督者である。余が重大事を決断する。越後側が示してきた条件は吞めぬ」

 晴信はそう宣言し、半ば強引に軍議を打ち切ると義信はあからさまに不満げな表情になった。

 余りに頑なな義信の態度に、晴信は国中くになかに手紙を遣って


義信は今川の面目を立てることに拘り父子の間柄を忘れ困惑している。こちらは和睦交渉に進展が望めないので、一旦打ち切ろうかと考えている


 と和睦交渉が難渋していること及び義信への不満を書き送っている。なお、現存するこの手紙の宛先は切り取られており不明である。

 一方、武田に無理難題を吹っかけた形の越軍では、参謀宇佐美定満などが

「あのように一方的に当方有利な和睦条件を示されては、成る和睦も成りませんぞ」

 と景虎に諫言したが相変わらず取り合うふうもない。

「甲駿相三国は御公儀の許しも得ずあい和して他国を侵略しておる。譲歩の余地はない。こちらは帝から綸旨も賜っているのだ」

 そう言うだけであった。

 越軍は交渉が破綻した四日後の七月十九日に犀川を渡河して甲軍本営に攻撃を仕掛けているが、小競り合いに終始して結局撃退されている。いわば交渉決裂に対する越軍の報復的示威行為であり、もとより本格攻勢を目指したものではなかった。戦線はすぐに元の木阿弥、膠着状態に逆戻りしてしまった。

 そうする間にも両軍兵糧いよいよ欠乏し、互いにかけ落ちる兵卒が続出するようになった。音を上げたのは晴信の方であった。やはり上原城で病臥する於福のことが気になった。いよいよ危ないと聞いて、和睦交渉の再開を望むようになったのである。

 既に十月に入っており、着陣以来越軍と相対すること二〇〇日に及んでいた。雑兵のみならず大身の将が身につける具足にもところどころほつれが生じ、厭戦空気は覆しようがない。過酷な環境に身を起き続け、戦地にて没した人馬も少なくなかった。

 再開された和睦交渉において越後は相変わらず強気の姿勢を崩さなかったが、武田側は

「それでもやむなし」

 とする空気が流れていた。

 晴信は軍議において

「当方不利の和睦条件で、得るところのない戦であったが後日を期すべしと考えておる。軍役衆の苦衷も甚だしく、越後の示す条件で和睦に応じようと考えるがどうか」

 と発言すると反論する者はなかったが、義信は

「結局そうなるのであれば、七月交渉で応じるべきでありましたものを」

 などと言わずとも良いことを口にして晴信を不快にさせた。

 二〇〇日を越える対陣の結果、越後側の条件が全て認められ旭山城は破却、井上、須田、島津氏等が旧領に復した。翻って武田方は、栗田永壽軒の帰属以外何ら得るところがなかった。

 成果が全く上がらなかった軍役を終え、くたびれ果てた体を引き摺って帰路に就く甲軍の背を見送りながら、景虎は独りほくそ笑んでいた。

 彼の目には、甲軍本陣奥深くにおいて晴信とその嫡男義信が意見を異にして激しく対立したであろう情景がありありと浮かんでいた。

(甲駿の同盟を引き裂こうと思えば、ただ晴信父子の間柄を引き裂けばそれで足りる)

 景虎の頭脳は、一見強大に見える甲駿同盟の、最も奥まったところにある脆弱な一点を過たず見破り、そこを衝いたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る