第一章(上田原の戦い)‐二

 板垣駿河守信方による村上攻めの建議に対して諸将が招集され、その是非を論ずべく躑躅ヶ崎館大広間に列席していた。大広間の片隅に、風采の上がらない小柄な侍は一人、座していた。ようやく初春のころを迎え、未だ厳冬の余韻が残る時節であるというのに、薄汚れた麻の素襖すおうに身を包んで所在なげな表情は、仕官が叶ったばかりの外様の哀れを醸すに十分であった。板垣駿河守の目には末端に座する外様の姿など映ってはいなかった。信方は

「村上攻めの是非について如何」

 と一同に向けて発した。板垣信方が村上攻めを志向していることについて熟知していた家中衆は口々に

「速やかに軍役衆を差し向け討ち滅ぼすべし」

「小田井原に関東管領の軍を破った我等、村上などものの数ではない」

 とあからさまに信方の意向に沿う意見が発せられた。晴信はその光景を大広間の上座から見下ろしながら内心苦り切ってはいたが、鷹揚おうような表情は崩すことなく

「では先陣を望む者はあるか」

 と一同に問いかけると、当然武勇第一の自分を差し置いて名乗りを挙げる者などあるはずがないという信方の思惑に反して、大広間の末端に座していた例の貧乏侍がおそるおそる挙手しながら

「あのう・・・・・・、それがしが、その、先陣賜りとうございます」

 と名乗りを挙げたのであった。晴信は敢えて満面の笑みを湛えながら大袈裟に

「真田源太左衛門幸綱か。自ら先陣を願い出るとは殊勝な心懸けである」

 激賞したが、一同の筆頭に座する信方は目を剥き顔を真っ赤にさせながら

「外様の分際で、家中のしきたりもわきまえず先陣の名乗りを挙げるとは無礼千万。控えよ」

 と満座の中でこれを叱責した。晴信は

「よいではないか信方。思うに真田も佐久、小県復帰を心懸けての願い出であろう。だが暦年の武功もあり、先陣は例によって板垣駿河守に命ずる。真田源太左衛門幸綱はその脇備をせよ。一同大義であった」

 と散会を告げた。

 諸将が大広間を出る際、平伏する真田幸綱に対し、板垣駿河守は如何にも憎々しげに

「我がこころざしも知らず、出過ぎた真似をするでないわ」

 そう吐き捨てて足早に去ったのであった。

 今や家中に並ぶ者のない、不動の地位を築いた信方にも一抹の不安はあった。既に還暦に達した自らの年齢のことである。それを思うと、これから先今までどおりの武威を発揮して歴戦することは難しいことのように思われた。翻って晴信は、自分と比べ三十よりもまだ若い。家中において人材を募り、次第に大きくなりつつあるその藩屛の存在も気にかかる。年齢を考えたならば、この村上攻めの直後が、旗揚げの最後にして絶好の機会であった。一気呵成に村上領を併呑へいどんし、自らが郡代を務める諏方を加えて旗を揚げれば、家中宿将のうちで自分に靡く者が相当数出てくることを信方は疑ってはいなかった。

 昨日今日家中に参じたばかりの貧乏侍に手柄を譲ってやれる時間的余裕など、信方には残されてはいなかったのである。

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