第一章(上田原の戦い)‐三
天文十七年(一五四八)二月一日、晴信は国内の軍役衆五〇〇〇を引率して甲府を発し、上原在城の板垣勢を糾合した後小県南方の大門峠を越え村上領内に侵攻した。同十四日、
「北信の田舎侍ども、戦する前から腰が引けておるわ」
と唾棄するようなひと言を発した。
関東管領の軍を撃破した彼にとっては反武田の一点だけで結合する村上勢など烏合の衆に過ぎず、自分が騎馬を駆って前線に乗り入れ、鑓を一振りすれば手もなく壊乱する相手に違いないと確信していたのであった。
信方の目には敵陣を構成する兵卒の表情は見えていなかった。それはもはや見て確かめるまでもないものであった。いつもであれば、敵兵の恐怖に引きつる口許、頬を伝う汗の一滴、合った視線を
信方はその事について何も不思議には思わなかった。自分がそのような特殊な視点を持つことが出来るのは、強敵を目の前においた昂奮と緊張に由来するものなのであって、既に関東管領の軍を破り近隣に武名を轟かせている自分にとっては、目の前に陣取る村上勢などものの数ではない証拠であると内心驕り高ぶっていたからであった。
なので信方は、今回ばかりは日常の
信方は敵前まで躍り出るや、騎馬を乗り入れて自ら鑓を振るうと、村上勢はさながら
本陣に在って観戦していた晴信は、傍らに控える山本勘助に対しひと言
「脆すぎる」
と嘆息した。早くも村上勢が崩れ立ったことに対する慨嘆であった。
このまま信方の前進を許せば村上義清は手もなく敗亡し、またも信方に名をなさしめる結果になりかねないことを危惧したのだ。だが勘助は
「あの脆さはどう見ても不審です。我等は押し出すことなくここに構えて信方様の前進するに任せましょう」
と進言したので、晴信は全軍を押し出して敵を押し包み撃滅する絶好の機会ではあったけれども自重して、本陣を動かすことはなかった。
信方は脇備の真田源太左衛門幸綱の手勢と共に、敵中深く侵攻して追撃の手を緩めることはなかった。追撃の進度は急で、討ち取った敵頸も既に相当数に上っていた。
信方は敵兵が散り去ったあとの上田平の北辺において小休止を命じた。その陣中、真田源太左衛門は、板垣勢が討ち取った頸のひとつひとつを確かめながら
「この頸は何処の
などと具体的に名を挙げながら細かく信方に注進し、地元の情報に詳しい強みを見せたのであった。
幸綱は、
「
と進言した。
信方は村上攻めに先立つ軍議において家中のしきたりもわきまえず先陣を名乗り出たこの風采の上がらない人物を当初
「左様か。ではよろしく頼む」
と幸綱の
幸綱は僅かな手勢を引き連れて斥候に走り、途中から馬を繋いで供廻りの者に
「これより先はわしが一人で参る」
と言い残すと、「危のうござる」「供をお付けなさるべきであろう」と口々に押し止める諸人を尻目に、森の中まで押し分け入ると、森の向こう側より人馬の物音が聞こえる。
幸綱は
(これは相当な数だ)
と直感して緊張した。そして長く伸びた山の草木に身を隠し覗き見ると、
幸綱は産川に陣取った敵勢が不審なほど弱体であった理由が分かった。敵は敢えて敗勢を装っているのだ。
幸綱は即座に
「敵勢の姿は見えなんだ。急ぎ返して信方様にその旨注進申そう」
と嘘を陳べた。
幸綱は信方に斥候の結果を復命すると、やにわに声を潜めて
「それがし、信方様の心根を知らぬものではありません」
と耳打ちするかのように切り出した。そして、
「それがし、年来信方様のような強い大将にお仕えすることを願っておりました。今や海野一族は没落し、上州平井に拠る関東管領上杉も小田原衆(後北条氏)に押され、頼みとはなりません。思い定めて信州に連勝する武田に仕官を願いましたが、晴信公は板垣様が敵勢を破り猛進しても陣を構えて動く様子がありません。このまま武田に仕え申しても、我が旧領の回復は思うに任せないでしょう」
と続けると、
「信方様、この戦勝を契機に一旗お揚げなされ。
と、とどめとも言えるひと言を放った。
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