第一章(上田原の戦い)‐一
村上義清の勢力圏は俄に騒然となった。その領域に敗残の志賀籠城衆が列をなし続々と
「武田に屈すれば斯くの如くなるぞ」
と小領主、
そもそも村上義清とて、以前は武田や諏方と結んで佐久を
領内諸衆が騒然とする中、独り義清は冷徹に対武田の戦策を練っていた。義清には
北信中野を本拠とする高梨政頼や佐久の海野一族と歴戦し、今や本拠地
義清が最も嫌ったのは、晴信が決戦を挑むことなくこれを回避し続け、軍事力ではなく黒川金山に産する甲州金によって内応者を募り、味方を内側から瓦解させようという試みであった。
しかしそれもどうやら心配する必要はなさそうである。
なぜならば各方面から、先の小田井原の戦いにて大いに武名を挙げた板垣駿河守が、武力による村上領併呑を志向しているらしいとの情報を得ていたからである。
義清は自らを板垣駿河守の立場に置いて考えた。義清には、板垣駿河守が自らの身命を賭して各地に歴戦する動機が晴信に対する忠誠心だとはどうしても思われなかった。世を挙げての下克上である。その先にある光景を、当然板垣駿河守も見ているはずであった。自らの旗を一国に掲げ、群雄の仲間入りを果たすという夢である。
武田家中には村上攻めを敢行するにあたり当然慎重論もあろうが、それは板垣駿河守によって一蹴されるに違いなかった。そして板垣は、蟻の群れのような群衆を率いて、或いは自ら蟻の群れの一員となり、その先頭に立って攻め寄せてくるに違いないのである。
義清は歴戦のうちに鍛え上げられた
「義清殿はそう簡単に屈しますまい」
というのが勘助の見立てであった。その見立ては晴信の見解とも一致するものであった。晴信は志賀城陥落を契機に領域を接することとなった村上義清の実力を侮ってはいなかった。
晴信はこれまで甲州勢が連戦連勝を重ねた要因が、単に
したがって晴信は、村上領侵攻ともなれば当然先陣を買って出るであろう板垣信方にこれ以上名をなさしめないため、また国内軍役衆の無用な出血を抑えるため、調略によって内応者を募る方途を考えていた。
勘助は晴信の意を実現するため、曾て海野一族に名を連ね信虎、村上義清、諏方頼重の三者によって上野に逐われた真田源太左衛門幸綱を家中に推挙した。東信に多く縁者を抱える彼が、調略の担当者として適任と考えられたからであった。
だが案に相違して調略は進まなかった。志賀落城の際の仕置が
あのような方法によってでしか恩賞を給付できない事態に自らを追い込んだ信方に対し、晴信の怒りは頂点に達していた。しかも信方は、調略が進まない事態を嘲うかのようにして村上領に対する武力侵攻を建議したのである。
「斉王を求めた韓信に似ておる」
晴信が信方を評して呟いたひと言である。
例によって信繁と勘助を
「駿河守からの建議とあれぱ、軍議にかけざるを得ません。そうなれば、もはやおおっぴらに駿河守の意見に異を唱えられる家中衆はおりますまい。こうなってしまった以上は、村上攻めを板垣排斥に積極的に利用するより他ありません」
信繁の言葉に晴信が問うた。
「積極的に利用する、とは」
「小田井原では失敗しましたが、勘助の策を今一度、今度は村上との戦にて試すのです」
「あれは諸刃の剣だ」
晴信は、信方を排するに猶予がないことを理解しながらも
晴信の心配に対して勘助が
「それでは来るべき戦役の際には、真田源太左衛門幸綱殿を板垣様の
と献策すると、晴信は
「真田を板垣の脇備に? 如何なるわけで」
と問うた。
「真田殿を家中に推挙する前、それがし真田殿と仔細にわたり会談致しました。真田殿は旧領復帰を強く望んでおられます。武田は佐久から真田殿を追い出した御先代から代替わりしております。真田殿が御屋形様に仕官を望んだのも、もはや代替わりによってその恨みは消え、寧ろ御屋形様のお力によって旧領復帰の念願を成就するため、とのこと。今、村上領内の縁者を伝って調略を進めておられるが、その遅滞に最も歯噛みしているのは御屋形様ではありません。真田殿なのでございます」
「旧領復帰を望んでいるのであれば、当然そうであろうな」
晴信の言葉に対し、勘助は
「この真田殿を我等の企みに引っ張り込みます」
と言うと、信繁が色をなして
「正気か勘助。真田と言えばつい先般仕官したばかりの外様だぞ」
と咎めた。
勘助は笑みを含みながら
「これは。つい先年仕官したばかりのそれがしを前に信繁様のお言葉とも思えません」
と返したあと、
「兎も角も、小田井原にて失敗したのは信方様が思うさま軍を動かし得たのが原因。次回はその信方様の
と陳べた。
信繁は
「駿河守を上手く操ることが出来たとして、戦全体の
と問うと、勘助は驚くべきことを言った。
「もはや信方様排除のためには一刻の猶予もないとは御屋形様の
「負けることを前提に軍を起こすか!」
信繁は驚嘆とも怒声ともとれる声を発した。
「幸い当家には御屋形様の
腕組みしながら勘助の献策に耳を傾けていた晴信は言った。
「小田井原の失策後の余の言葉、確かに覚えているな。次は失敗は許されんのだ。そのことを心得、真田によく我が意のあるところを伝えよ」
晴信は勘助の策に危険が伴うことを承知の上で裁可を下した。
小田井原における失策を経てもなお
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