第一章(上田原の戦い)‐一

 村上義清の勢力圏は俄に騒然となった。その領域に敗残の志賀籠城衆が列をなし続々とかけちてきたからである。彼等は義清に対して生首三千や戦後の仕置の苛烈を口々に訴えた。義清はこれを領内に喧伝し

「武田に屈すれば斯くの如くなるぞ」

 と小領主、地下人ぢげにんに訴え結束を促したのであった。痩せ衰え、悲嘆に暮れる志賀籠城衆の姿は、事実北信と人々を反武田の一点で結束させた。

 そもそも村上義清とて、以前は武田や諏方と結んで佐久を劫掠ごうりゃくした立場である。だが今回の志賀城攻めに際しての晴信による残虐な仕置が、佐久衆の村上に対する旧怨を捨てさせた。佐久の人心を喪ったのは、明らかに晴信の失策が原因であった。

 領内諸衆が騒然とする中、独り義清は冷徹に対武田の戦策を練っていた。義清にはきたるべき甲州勢との一戦に備えて必勝の策があった。

 北信中野を本拠とする高梨政頼や佐久の海野一族と歴戦し、今や本拠地埴科はにしな郡に加えて小県ちいさがた、高井、水内みのちの四郡と佐久の一部を有する村上の国力は、既に信濃守護職小笠原長時を凌駕するまでに成長していた。一方の武田は、先代信虎が成し遂げた甲斐統一という遺産によって、文字通り一国の軍勢を傾け破竹の快進撃を続けていた。だが甲州勢が今まで打ち破ってきた相手は諏方や高遠など、せいぜい一郡かそれに満たない領域を有するのみの小領主ばかりであった。領域諸衆の結束を促し一丸となって抵抗すれば、甲州勢とて一朝にして村上を抜くことなど出来はしない、というのが義清の現状認識であった。

 義清が最も嫌ったのは、晴信が決戦を挑むことなくこれを回避し続け、軍事力ではなく黒川金山に産する甲州金によって内応者を募り、味方を内側から瓦解させようという試みであった。

 しかしそれもどうやら心配する必要はなさそうである。

 なぜならば各方面から、先の小田井原の戦いにて大いに武名を挙げた板垣駿河守が、武力による村上領併呑を志向しているらしいとの情報を得ていたからである。

 義清は自らを板垣駿河守の立場に置いて考えた。義清には、板垣駿河守が自らの身命を賭して各地に歴戦する動機が晴信に対する忠誠心だとはどうしても思われなかった。世を挙げての下克上である。その先にある光景を、当然板垣駿河守も見ているはずであった。自らの旗を一国に掲げ、群雄の仲間入りを果たすという夢である。

 武田家中には村上攻めを敢行するにあたり当然慎重論もあろうが、それは板垣駿河守によって一蹴されるに違いなかった。そして板垣は、蟻の群れのような群衆を率いて、或いは自ら蟻の群れの一員となり、その先頭に立って攻め寄せてくるに違いないのである。

 義清は歴戦のうちに鍛え上げられた長柄ながえ衆を縦横に操り、蟻の群れのような甲州勢を突き崩す情景を想像した。来るべき戦役において板垣をほふり、その余勢を駆れば晴信を討ち取ることなど造作もないことであった。もし板垣、晴信両名を討ち漏らしたとしても、点でばらばらに掛かってくる甲州勢を打ち破ることは疑いのないところである。敗戦によって家中における武名を失い、窮した板垣が晴信に対して造反するのを高みから見物するのもそれはそれで良い。いずれにしても自分に利のある結果となることだけは確かであった。義清は国内諸衆の恐慌を尻目に、密かに必勝を確信していたのである。

 

「義清殿はそう簡単に屈しますまい」 

 というのが勘助の見立てであった。その見立ては晴信の見解とも一致するものであった。晴信は志賀城陥落を契機に領域を接することとなった村上義清の実力を侮ってはいなかった。

 晴信はこれまで甲州勢が連戦連勝を重ねた要因が、単に彼我ひがの動員兵力の差でしかないことを熟知していたのである。北信、東信四郡に加え佐久の一部を領有する村上の兵力は、武田に及ばないとしても拮抗することは明らかであった。加えて志賀城の仕置に伴い、村上領に逃れた佐久衆がその怨念を晴らすために激しく挑みかかってくることも予想された。

 したがって晴信は、村上領侵攻ともなれば当然先陣を買って出るであろう板垣信方にこれ以上名をなさしめないため、また国内軍役衆の無用な出血を抑えるため、調略によって内応者を募る方途を考えていた。

 勘助は晴信の意を実現するため、曾て海野一族に名を連ね信虎、村上義清、諏方頼重の三者によって上野に逐われた真田源太左衛門幸綱を家中に推挙した。東信に多く縁者を抱える彼が、調略の担当者として適任と考えられたからであった。

 だが案に相違して調略は進まなかった。志賀落城の際の仕置が苛烈かれつに過ぎたのだ。

 あのような方法によってでしか恩賞を給付できない事態に自らを追い込んだ信方に対し、晴信の怒りは頂点に達していた。しかも信方は、調略が進まない事態を嘲うかのようにして村上領に対する武力侵攻を建議したのである。

「斉王を求めた韓信に似ておる」

 晴信が信方を評して呟いたひと言である。

 例によって信繁と勘助を看経間かんきょうのまに招集した晴信は、垓下がいかに楚の覇王を追い詰めた主君劉邦から援軍派遣を下命された韓信が、その見返りに斉王の位を求めて高祖の不興を買った故事になぞらえ嘆息した。村上方が調略になかなか応じない事態を尻目に、またぞろ主家の兵を借りて我意を果たそうと企てている信方を、韓信にたとえたのである。

「駿河守からの建議とあれぱ、軍議にかけざるを得ません。そうなれば、もはやおおっぴらに駿河守の意見に異を唱えられる家中衆はおりますまい。こうなってしまった以上は、村上攻めを板垣排斥に積極的に利用するより他ありません」

 信繁の言葉に晴信が問うた。

「積極的に利用する、とは」

「小田井原では失敗しましたが、勘助の策を今一度、今度は村上との戦にて試すのです」

「あれは諸刃の剣だ」

 晴信は、信方を排するに猶予がないことを理解しながらも躊躇ちゅうちょせざるを得なかった。小田井原において信方は、予想に反し討死うちじにどころか関東管領の軍を破り、今や家中における発言力は主晴信に迫るものがあった。再び小田井原のような事態が繰り返され、信方の武名が轟くようなことになれば、家中のうちに公然と信方になびく者が出現する事態すら予想された。そうなってしまえば、信方は好機とみて武田に叛旗を翻すかもしれなかった。

 晴信の心配に対して勘助が

「それでは来るべき戦役の際には、真田源太左衛門幸綱殿を板垣様の脇備わきぞなえとなされませ」

 と献策すると、晴信は

「真田を板垣の脇備に? 如何なるわけで」

 と問うた。

「真田殿を家中に推挙する前、それがし真田殿と仔細にわたり会談致しました。真田殿は旧領復帰を強く望んでおられます。武田は佐久から真田殿を追い出した御先代から代替わりしております。真田殿が御屋形様に仕官を望んだのも、もはや代替わりによってその恨みは消え、寧ろ御屋形様のお力によって旧領復帰の念願を成就するため、とのこと。今、村上領内の縁者を伝って調略を進めておられるが、その遅滞に最も歯噛みしているのは御屋形様ではありません。真田殿なのでございます」

「旧領復帰を望んでいるのであれば、当然そうであろうな」

 晴信の言葉に対し、勘助は

「この真田殿を我等の企みに引っ張り込みます」

 と言うと、信繁が色をなして

「正気か勘助。真田と言えばつい先般仕官したばかりの外様だぞ」

 と咎めた。

 勘助は笑みを含みながら

「これは。つい先年仕官したばかりのそれがしを前に信繁様のお言葉とも思えません」

 と返したあと、

「兎も角も、小田井原にて失敗したのは信方様が思うさま軍を動かし得たのが原因。次回はその信方様のそなえの内に、我等の意を含んだ者を配し、うまく信方様を操るのです。真田殿であれば、必ずや策を成就なさるでしょう。前線に配置するので真田殿にとっては命懸けの戦となります。ですから真田殿に対しては、御屋形様自らしかと旧領復帰をお約束なされませ」

 と陳べた。

 信繁は

「駿河守を上手く操ることが出来たとして、戦全体の帰趨きすうはどうなる。下手をすれば大敗するぞ」

 と問うと、勘助は驚くべきことを言った。

「もはや信方様排除のためには一刻の猶予もないとは御屋形様の御諚ごじょう。敗戦は甘受するより他ございません」

「負けることを前提に軍を起こすか!」

 信繁は驚嘆とも怒声ともとれる声を発した。

「幸い当家には御屋形様の藩屛はんぺいが着々と築かれつつあります。それがし思うに、そのうち馬場民部みんぶ少輔しょうゆう信春殿と工藤源左衛門尉げんざえもんのじょう祐長殿はよき心懸けの大将で、既に数度の合戦を経験しておりますから、我等に加えてその二名を本営付近に配しましょう。そうすれば先手が壊滅しても全体が崩れ立つことはございますまい。御屋形様、如何でしょう」

 腕組みしながら勘助の献策に耳を傾けていた晴信は言った。

「小田井原の失策後の余の言葉、確かに覚えているな。次は失敗は許されんのだ。そのことを心得、真田によく我が意のあるところを伝えよ」

 晴信は勘助の策に危険が伴うことを承知の上で裁可を下した。

 小田井原における失策を経てもなおあつい信をおく主晴信に対し、勘助は平伏した。

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