第一章(諏方攻略戦)‐一

 晴信が国守の座に就いてから一年近くが経った。

 先代信虎のころに打ち続いた軍役を停止ちょうじして十分に軍役諸衆の鋭気を養った晴信は、信濃出兵に先立ち早速勘助にその鋭鋒をいずれに向けるかを諮問した。

 晴信は父信虎の方針を継承して佐久方面への出兵を考えていたが、勘助はこれに真っ向から反対した。佐久は山がちで地力に乏しく人口も過少である。また国境を接しているが故に上野国において依然隠然たる勢力を有する関東管領山内上杉憲政の干渉を呼び込む恐れがあった。それに比較して、甲斐と隣接するのみで他国と接していない諏方は、関東管領家の干渉を受ける恐れが佐久ほど大きくもなく、また満々たる諏訪湖を湛え土地は肥沃であり、住まう人々も多い。

 加えて勘助は、甲信諸人の信仰を集める諏方大社おおやしろを武田が庇護する利を晴信に説いた。晴信が諏方家を打ち倒し、これに代わって大社の庇護者になれば、大社を通じて信州諸人の人心を掌握することもできる、という理屈であった。

 勘助の諏方侵攻論は肯首できるもので、家中衆の意見も諏方攻略で統一されつつあったが、晴信には諏方攻略を目指す上で二つ、気懸かりなことがあった。

 一つは信虎の代に、妹の禰々が諏方惣領家頼重の許に嫁していたことである。武田と諏方は縁戚を取り結んでおり、強固な同盟関係を有していたのだ。盟約の破棄を気に掛ける晴信に、勘助はこう進言した。

「先年、御先代は小県の村上義清殿、諏方頼重殿と協働して佐久を切り取りました。これによって佐久は武田、村上、諏方に分割されましたが、先般上杉憲政公が関東の軍兵を率いて佐久に侵入した際、頼重殿は我等の了解を得ることなく、佐久を上杉に明け渡しております。先に盟約に違犯されたのは頼重殿なのです」

 佐久領の上杉への無断譲渡は諏方との盟約を破棄する恰好の口実だというのである。

 晴信が気にした今ひとつは、過去に信虎も甲斐軍役衆を率いて諏方攻略に着手しながら、諏方はこの鋭鋒を悉く凌ぎきり、依然として勢力を保っていることであった。

 晴信にとっては家督継承後初の外征である。敗北を喫すれば諸人の心は離れ、板垣をはじめ主家乗っ取りを画策する国人諸衆が力を得、甲斐は再び乱国状態に逆戻りすることとなろう。要するに勝てるかどうかだ。

「諏方の政情を鑑みるに、曾ては惣領家を中心に結束を保っていた諏方も、今は一枚岩ではございません。下社の金刺は上社と軋轢を生じています。また諏方大社神長官守矢頼真は上社が課する税を巡り頼重殿弟大祝頼高殿と反目しあっております。上社の禰宜太夫ねぎだゆう矢島満清に至っては、その守矢頼真と反目しているのみならず大祝おおはふり頼高殿とも対立しているとのこと。また諏方家庶流の高遠頼継殿も、諏方惣領家の地位を望んでおり、もはや一族諸衆、諏方惣領家を扶けようという者は誰一人としておりません。ただ諸衆の均衡の上に、砂上の楼閣の如く立っておられるのが今の頼重殿なのでございます。御屋形様が一朝軍兵を発すれば、皆こぞって割菱わりびしの旗の下に集うでしょう」

「なるほど、そう聞けば頼重殿もそぞろ哀れではある。だがな勘助、禰々は如何致す。敵中に孤立することになる」

 晴信の問いに勘助はこたえた。

「御屋形様が諏方討伐の軍兵を挙げれば、先ほど名前を挙げた諸衆は必ずや御屋形様に合力して、寧ろ頼重殿が敵中に孤立することにあいなりましょう。一族のしがらみから頼重殿は金刺、高遠、守矢、矢島いずれに対しても降伏をがえんずることはあり得ません。これらの諸衆と共に締め上げれば、頼重殿は禰々様とのご縁を頼みに必ずや御屋形に降伏を仰せ出されることでありましょう。自ら好んで禰々様を生害しょうがいなさることはあり得ません」

 勘助の現状分析に愁眉を開いた晴信は、早速高遠頼継の許に使者を遣り、宮川を境に諏方領を分割する旨の好餌を以て合力の約束を取り付けるとともに、守矢頼真に対しては諏方領獲得後の地位保全を約束して内応を募った。金刺、矢島も頼重憎しの激情からこれに応じ、必勝の態勢を作り上げた晴信は麾下軍役衆に参集を呼びかけ、遂におよそ一年ぶりとなる外征の軍を発したのであった。

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