第一章(勘助仕官)‐三
晴信の声に、勘助が頭を上げた。その醜男ぶりを目に、主は果たして如何なる表情を見せるや、と一座が静まりかえったが、晴信は
「まずは経歴を聞こう」
「明応九年(一五〇〇)、三河国牛窪にて父貞幸四男として生まれ、齢十五のころ一念発起して諸国武者修行の旅に発向致しました。
勘助は晴信に向かって、却って欠けた手指を誇示するように両の掌を開いて見せた。
晴信が続けて
「諸国遍歴で兵法を極めたと聞いておる。合戦、城取の手柄話を一つこの場にて披露せよ」
と命じると、勘助は信方に語ったのと同じく
「一軍を引率して合戦に臨んだことはございませぬ。兵卒として加わった戦はすべて負け戦で終わりましてございます。したがって手柄話などはございませぬ」
平然こたえてのけたので、一同からざわめきが起こった。
「軍を率いて合戦に及んだこともないのに兵法を極めたとはこれ如何に」
「大言壮語しおって」
などと、
「分かった。では諸国遍歴の上で我が甲州勢の
「
勘助がここまでいうとやにわに
「黙れ」
「蟻の群れなどと」
「無礼なり」
と怒号が広間に飛び、ある者は立ち上がって勘助に掴みかからんばかりにいきりたった。
「静まれ」
晴信の声が一座を制した。一同は憤懣やるかたないというような表情を見せながらも、その一声に静まった。
「よろしい。蟻の群れか。ようく分かった。
では、城取のことについて訊ねよう。甲信の城は土塁を積み丸太を立て、これを縄で縛って
「まことでございます。これは近江国に住まう
「石垣、と申したか」
「左様。石築地などという規模のものでばございません。京畿の城は石材の土台を石垣と称し、御屋形様仰せの通り白壁を建てて防壁となしております」
晴信は興味を引かれたように身を乗り出した。
「甲信には穴太衆が持っているような石切の術を心得ている者はおるまい。川と言っても川幅は狭く流れは急で水運には向かぬ。京畿の城に優る城を築くこと能わぬか」
「そうとは限りません」
勘助はしかと晴信の目を見据えてこたえた。
「それがし諸国の城をつぶさに観察し、様々な城取の術を極めました。
当初は傲慢ともいえる勘助の言に騒然となった一座であったが、皆次第にこれに聞き入るようになっていた。
「山本勘助。譜代家老衆居並ぶ中で、
晴信は昨日信方が示した知行百貫を勘助に提示した。すると勘助はこたえて
「それがしの策を用いて下さるならば、たとえ知行五十貫でもお仕え申そう」
と言うと、晴信は喜んで
「よかろう。では知行二百貫を宛がう。今日より余に仕官するがよい」
即座に出仕を許したのであった。
信方は晴信と勘助の遣り取りを間近に見ながら、吹き出しそうになるのを必死に堪えていた。広間の一同諸衆にとっては裏付けの取れない話を勘助が延々と垂れ、また晴信がそれを真に受けてさも分かったようなふうを示しながら頷く様が可笑しくてたまらなかったのだ。晴信が身銭を切って二百貫もの知行を即座に宛がったことも滑稽に思えて仕方がなかった。
ともあれ信方は当初の思惑通り、家中の厄介者であった山本勘助をまんまと晴信に押し付け、追い出すことに成功したのであった。
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