第一章(諏方攻略戦)‐三
頼重は禰々に対し、
「この者を見知っておるか」
と訊ねたが、禰々も知らないという。勘助は
「禰々様がそれがしを知らぬのは当然。つい先般、
そう釈明したあと、
「頼重様、武田に降りなされませ。禰々様は主晴信の妹御、また誕生したばかりの寅王丸様は主にとっては甥。一族とはいえ諏方惣領家を狙う高遠などに御身をお渡しするわけには参りません。頼重様が当家との盟約に違犯した罪は免れませんが、隠居なさり寅王丸様に家督を譲られれば御身の安全は保障するとの御諚」
と投降を勧めると、既に抗戦意欲を喪失していた頼重頼高兄弟は先の
降将とはいえ晴信妹を娶る頼重である。躑躅ヶ崎館までの道程は乗馬を許されるものと当然
今となっては妻禰々が、武田への投降を
桑原開城から十六日後の七月二十一日、東光寺の頼重の許に晴信からの使者駒井高白斎政武が来訪して主からの口上を淡々と陳べた。
「御屋形様の御諚をお伝え申す。諏方頼重は永年にわたる当家との友誼を自ら断ち、当家に了解なく上杉風情に佐久領を割譲したのは重大な盟約違犯である。頼重頼高兄弟の罪は重い。ここに両名に切腹を命じる」
そう聞くや頼重は高白斎に
「切腹? 身の安全は保障するとの約束だったはずだが。あの隻眼の老武者はどうした。あの者と話がしたい」
と言ったが、しかしそれ以上騒ぎ立てるような醜態は見せなかった。
権謀術数は世の常である。
頼重は
「分かった。我が死に様をしかと見届け、晴信殿に必ずその様をお伝えせよ」
と覚悟を決めたが、思い定めたように
「ところで我が妻は晴信殿と通謀しておったのか。それだけは知っておきたい」
と、たって望んだ。晴信主従は、頼重に切腹を命ずるにあたり、当然頼重からその質問があるだろうことを予想していた。
禰々は晴信の企てを事前に知ってなどいなかった。彼女はただ、夫と子を守るため、血縁を頼みに武田への投降を勧めただけであった。晴信も高白斎も、頼重に対するせめてもの慰めであるから、その事実は事実として有りのまま伝えることで一決していた。したがって高白斎は
「禰々様は最後まで頼重様に忠節を尽くそうとなさいました。我らから禰々様の許に、密使を遣るなどの術策を施したことは一切ございません。禰々様であれば、頼重様に我らへの投降をお勧めなさるだろうと我らが一方的に読み、禰々様がその読みどおりに動いたまで」
ありのままこたえると、頼重は安心したように
「左様か。禰々は余に最後まで尽くしてくれたのだな。これで何者をも疑うことなく腹を切ることが出来るというもの」
しばし
だが頼重は諏方惣領の誇りにかけて瞬時にその情を振り払い、明瞭に
「酒の
と高白斎に申し向けた。高白斎は
「生憎甲斐は山国ゆえ、肴と申しましても
戸惑いつつも正直一辺倒に応じた。すると頼重は高笑いしながら
「これは。武田の侍衆は切腹の作法を知らぬと見える。酒の肴というのは切腹に用いる脇差のこと。ようく覚えておられるがよい。そして、余の切腹する様を晴信殿にお伝えし、御自身が腹を召される際の
とのたまうや、差し出された脇差を抜き、これをためらうことなく自らの腹に突き立てた。
辞世の句を
おのづから枯れ果てにけり草の葉の
主あらばこそ又も結ばめ
と詠んで、二十七年の生涯を終えたのであった。
突如、夫の死を知らされた禰々の悲嘆は筆舌に尽くしがたいものがあった。
頼重が東光寺に幽閉中、頻りに妻との面会を求めたのと同じように、彼女もまた夫との面会を望んだ。武田方への投降を勧めた行為は、彼女なりに夫のためをおもっての行動だったのであって、夫を謀殺するための企みを実家と相通じたものでは決してなかったのだと
だが晴信は頼重との面会を赦さなかった。遂に夫への弁解の機会を与えられなかった禰々は、ある日突然に夫の自刃を知らされた。憔悴しきった禰々は、頼重切腹後の天文十二年(一五四三)二月、一子寅王丸を遺して失意のうちにこの世を去った。
晴信は頼重を切腹に追い込んだ後、頼重とその側室
この血塗られた抗争の結果、武田家中に抜きがたい禍根を残すことになるのだが、それが表面に噴出するのはもっと先の話となる。
ともあれ、一時は諏方大祝職、延いて惣領家の継承を約束された寅王丸ではあったけれども、結果としてこれは空手形に終わった。頼重切腹の二ヶ月後、宮川
寅王丸は父母という強力な後ろ盾もなく、晴信が諏方支配を確立させていく過程で本人の与り知らぬまま地歩を失い出家させられた。長じて自らの出自を知った寅王丸こと
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