第四章(三増峠の戦い)‐三

 もし昌秀の建言どおりに作戦が進展すれば、上杉輝虎という共通の敵が存命である以上甲相同盟再締結に望みを繋ぐことが出来る。野戦に終始するなら領土を巡る遺恨を残すこともない。

 説得を試みて和約を請うか、一戦交えるか。

 意見は出尽くしていた。

 大広間にしばしの間、静寂が流れた。信玄は如何なる決断を下すのか。諸将がその姿を注視していた。

 信玄の両眼が静かに開かれた。

「八月下旬に関東へ討ち入る。鉢形、滝山、小田原など北条方の諸城は叩きはすれども分捕らぬ。城を攻めるは北条勢を野戦に引き摺り込むための手段と心得よ。

 本戦における先鋒の任は淺利信種、小荷駄奉行は工藤源左衛門尉に特に命ずる。軍役衆は、例によって武勇人、有徳人を選りすぐって参陣させよ。小荷駄を曳く夫丸ぶまるは健脚の者を特に選抜すること。

 以上である。一同、大義であった」

 軍議は野戦と決した。

 諸将は「応」と声を揃え、関東出兵の準備をすべくそれぞれの在番城或いは本貫地へ向け散会したのであった。


 なお、これは余談であるが、広間を出た工藤昌秀の背後から彼に声を掛ける者がいた。西上野衆の軍監に任じられた曾根内匠助昌世であった。彼は、またも小荷駄奉行を命じられた昌秀に対し幾分かの哀れみを以て声を掛けたものであった。

「戦巧者の貴殿であるから、精鋭を率いて御先陣賜れば相当のお働きのあろうものを、今回も例によって小荷駄奉行とは」

 これは、出陣にあたって昌秀が小荷駄奉行に任じられる事例が近年多い事実を指して、昌世なりに同情を含めたものの言い方であった。

 同情を寄せられた側の昌秀はしかし、涼しげな笑みを含みながら応じた。

「それがしほどの巧者でなければ、小荷駄奉行は勤まらぬということでござろう。特にこの関東出兵の折には」

「されど、一軍を率いての戦ともなれば常人に抜きんでる活躍も貴殿ほどの弓取ゆみとりならば思いのまま。それが今日まで感状の一つも賜らぬとは、大きな声では言えんが、御屋形様は殊更貴殿に辛く当たっておられるのではなかろうか」

 軍役衆にとって感状とは、個人の武勇と忠節を示す証明書である。主家の滅亡が当たり前だったこの時代、次の仕官先を探し当て知行を宛がって貰うためには賜った感状の枚数は多いほど良い。軍役諸衆はそのため、こぞって主からの感状を欲した。

 工藤源左衛門尉昌秀は、それを一度たりとも信玄から賜ったことがない。家中でも有名な話であった。

 曾根内匠の言葉に昌秀は

「感状を賜らぬという事実こそ、御屋形様がそれがしに寄せる期待の大きさを物語るもの。感状などいたずらに個人の手柄に拘るなど、小さいこと」

 と返した。

 このとき昌世には、それが昌秀の強がりにしか聞こえなかったのであった。


 八月二十四日、信玄は本隊を率いて甲府を発した。

 甲軍は佐久、それから上信国境の碓氷峠を経由して上州箕輪に達し、分国の諸侍を糾合しながらいつしか二万の大軍へと膨れあがっていた。

 当初、甲軍は上越国境における軍事行動を企図していると見ていた小田原勢は、箕輪城代淺利信種の軍を糾合した甲軍が突如南に転じたことに度肝を抜かれ、上野、武蔵諸城の城将に対し

「甲軍はやがて疲弊し兵糧も欠乏して撤退のやむなきに至るであろう。そのころを見計らい退く甲軍の背後を痛撃する予定なので、それまでは固く籠もって守りに徹し、むやみに討って出るな」

 と通達した。

 信玄はまず、氏康三男氏邦が籠城する武蔵鉢形城を攻撃した。だが氏邦は父の訓示を守って固く城に閉じ籠もり、討って出てくる気配がない。信玄は氏邦麾下を挑発するように、城下の田畑において刈田狼藉を働き、村々を放火して廻った。

 眺望が利く鉢形の城内では、その様を見た城兵が悲鳴とも怒号ともつかぬ喚き声を上げていた。

「やつら、稲を残らず刈り取りやがった」

「大勢で田畑に踏み入れやがって。あれじゃ来年の作付けもできゃあしねぇ」

「あれは誰々のところの嫁っこだ。甲斐の奴らにかどわかされて身売りされるに違えねぇ」

「討って出るべし」

「討って出るべし」

 城内は俄に騒然となった。

 騒ぎを聞きつけた氏邦は早速騒擾そうじょうの首謀者を引っ捕らえて、見せしめに斬り捨てるよう侍衆に命じた。屈強の武者は鉢形城三の丸の木柵際で騒ぎを起こしていた中間ちゅうげんを引っ捕らえ、その場で斬り捨ててしまった。侍衆は騒擾の首魁の、討ち取った頸を高々と掲げ、

「軍規を犯す者は斯くの如くなるぞ!」

 と呼ばわり、このような血生臭い事件を経て、鉢形城内の騒擾はようやくにして終息したのであった。

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