第三章(八幡原の戦い)‐四
兄弟の視線の先にそびえる妻女山。
その中腹に政虎の本陣はあった。
越後軍役衆が明らかな死地に在りながら恐慌を来すことなく泰然として構えていられるのは、政虎という稀有の大将に対する麾下将兵の信頼の証であった。
だが越軍中の名のある大将は、兵の士気を維持するために気を配り、また糧秣の差配といったことにも腐心していた。ひとたび合戦ともなれば、命を限りに暴れ回るだけで良い下級の侍衆の立場が、彼らには羨ましかった。
その、名のある大将の内の一人齋藤
「御
ここは一旦陣払いして、来たるべき決戦に備え軍役衆の鋭気を養われては如何か」
と撤兵を具申したが、政虎は
「退くも策、か」
そう呟いただけで取り合うふうもない。
「糧秣の差配まことに大義。同じ仕事をせよと言われても余には到底勤まらぬ。だが
政虎のこの言葉に、齋藤下野は思わず
「退陣ですか。
では早速軍役衆にその旨
というと、政虎は微笑を含みながら
「馬鹿者。布礼て廻るのは退陣ではない。今宵山を下りることに変わりはないが、篝火を焚き紙旗を残して陣を払う。馬に
と命じたのであった。
齋藤下野は思わず
「えっ! ではいよいよ合戦ですか」
と、声を上げ聞き返す。
「見よ齋藤。海津城より立ち上る煙を」
政虎が指差した先に、朦々たる炊事の煙が白く月光に照らされていた。
「動きますか」
「まず、間違いなかろう」
政虎は断言して続けた。
「思うに甲軍は隊を二分し別働隊をこの妻女山に差し向ける肚だ。今まさに、有りっ丈の糧秣を振る舞って兵の腹を満たしておるのだろう。そして夜陰に乗じ、この妻女山の麓に押し寄せるに違いないのだ。既に我が手の者が海津城に動きあるを掴んでおる」
政虎よりそう告げられた齋藤下野は
「ではその別働隊とやらをこの妻女山にて迎え撃つ算段ですな」
と応じたが、これは齋藤の早合点であった。
政虎は相変わらず人を食ったような微笑を崩さず
「なるほど、人にはそれぞれ天分というものがあるのだな」
と言い、続けて
「良いか齋藤。信玄ほどの大将がこの妻女山を攻めるつもりであれば、とうの昔に取り囲んでおるわ。明日妻女山の麓に押し寄せるであろう甲軍別働隊は陽動に過ぎぬ。
これに釣られて山を下りたが最後、必ずやもう一隊がこの妻女山を一気に駆け上がり、我等を麓の部隊と挟撃するであろう。そして信玄は、妻女山を駆け上がるであろうもう一隊に座しているに違いないのだ。
我等は払暁の頃を見計らってそれに討ち掛かる。
もっとも、信玄本隊の布陣位置は未だに掴めておらんのだが・・・・・・」
「闇雲に布陣してなんとなさる」
馬鹿にされたことを敏感に嗅ぎ取った齋藤下野がむっとして詰ると、政虎は
「なに。およその位置は読めておる。信玄率いる本隊は八幡原へと押し出して参るに相違ない。
我等は今宵、それへ参る」
とこたえたのであった。
既に甲軍と交戦すること八年を
政虎は氏康とのそれよりも、信玄との決戦を望んだ。政虎の攻勢に対し、氏康が籠城策に徹して積極的に野戦に応じない方針で臨んでいることは明白であった。
それに比較すると、北信への攻勢を強めている信玄を野戦に引き摺り込んで討ち取る方が政虎にとっては容易に思われたのだ。
政虎には確信があった。
決戦を望んでいるのは決して政虎一人ではない。信玄もまたそれを望んでいるはずであった。挟撃策を採るということがそのことを表していた。
越軍が退却を選択するにしても、甲軍これを迎え撃つ絶好の場所が八幡原であった。もっとも、政虎にも一戦を交えることなく撤退する気などさらさらなかったのであるが・・・・・・。
政虎は、いるはずのない敵勢を目の前にした信玄が
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