第三章(八幡原の戦い)‐三

「策がございます」

 勘助は静かに切り出した。

「軍を再び二分いたします」

 一堂の顔が勘助に集中した。

「まず別働隊に全軍の過半を預け、これに妻女山を攻撃させます。山上の越軍はこれを打ち払うため、高みから別働隊に攻め掛かるでしょう。妻女山を降りるに相違ございません。その頃合を見計らって、空いた越軍本陣を本隊にて叩くのです」

 一堂考え込んだ。

 甲軍がそのような挙動を示した場合、越軍は如何に対処するであろうか。別働隊を放置して防備の手薄になった海津城を攻撃するかもしれない。だが一定数の籠城衆を残置しておけば、数刻で落ちる城ではなかった。

 政虎の立場になって考えれば、手薄とはいえ海津城を攻めている間に、妻女山攻撃隊によって挟撃されることは目に見えている。つまり政虎による海津城攻撃の目はないと考えてよかった。

 しばらくして口を開いたのは、馬場民部少輔であった。

「越軍が別働隊との決戦を嫌い、かつ妻女山を下って帰国の途に就けば、如何がいたそう」

 帰国を許せば川中島経略は再び振り出しに戻るのだ。信玄が示した方針にもとる。

 勘助は続けた。

「本隊は越軍が別働隊に攻めかかれば妻女山本陣を攻め、越軍が帰国の途に就けばその退路を断つことができる位置に布陣いたします。妻女山攻撃隊は早い段階で政虎の触覚に触れるでしょうが、これは寧ろ好ましうございます。その間に本隊は、敵方より遠すぎず近すぎない位置に布陣致します。例えば左様…・・・・・・この八幡原などはいかがでしょう」

 勘助は丸っこい撥指ばちゆびの先で、絵図面に書かれた「八幡原」という文字を指差したのだった。

 この勘助の策に賛意を示したのは、高坂弾正忠だった。

「我が相備あいぞなえで長く海津城在番を務めた原美濃守殿は、例年この時期の払暁に千曲川と犀川から立ち上る霧を味方につけることはできないかと思案しておられました。御屋形様御着陣以来、やはり払暁のころには濃い霧が八幡原一面を覆い隠します。この霧を利すれば、政虎の触覚に触れることなく本隊を八幡原に布陣させることができましょう」


 信玄はしばし沈思した後、上座に最も近い席に座する典厩信繁に訊ねた。

「典厩はどう考えておるか」

 軍議において判断に迷いが生じたとき、信玄は決まって信繁に意見を求めた。信濃攻略の総大将に任じた信繁に対する信頼の証であった。

 信繁は信玄の問いに対して、「僭越ながら・・・・・・」と前置きした後、おもむろに切り出した。

「それがしが政虎の立場なら、脇目も振らず敵の大将の頸、即ち屋形様の首級ひとつを狙いましょう」

 信繁の発言に一同がどよめいた。信玄一人だけが、さもありなん、と言わんばかりに深く頷いた。

 信繁は困惑する一同を振り返り、これを見渡しながら言った。

「勘助殿の挟撃策自体に異存はござらん。今打てる最良の一手と存ずる。だが決戦となれば相当の激戦となるに相違ござらぬ。越軍は死兵と化して打ち掛かってこよう。本陣近くまで押し込まれることも覚悟せねばならぬ。それがしにできることは、いざというときに本陣の屋形様を何としても守り抜く覚悟を、各々方おのおのがたに促すのみでござる。如何いかがか」

「もとより、合戦において敵将の頸を狙うは常道。政虎がそのつもりで打ち掛かってくるというのであれば面白い。それがし逆襲に転じて政虎の首級を挙げて見せましょう」

 信繁の問いかけに諸将が応じるより先に、先ほどまで青ざめていた義信が頬を紅潮させて不規則に発言した。

「義信、戦は攻めるより守る方がはるかに難しい。典厩はそのことを申しておるのだ。控えよ」

 信玄がたしなめると、義信にありありと不満の表情が浮かんだ。評定は脇道に逸れつつあった。

 信繁はすかさず

「兎も角も屋形様、作戦案は出尽くしました。御裁可を」

 と促すと、信玄は

「勘助の挟撃策を用いる。一同大義であった」

 と裁可を下したのであった。


 軍議の後、信玄は久しぶりに信繁と語り合う時間を設けた。

 信玄はこれまで砥石城における敗戦以降、常に必勝の状況を作り出して決戦に挑むことを心懸けてきた。その必勝の状況が今回も作り出されているか、甚だ心許なかった。

 敵地深くに布陣しながら、越軍には動揺の気配が全く見受けられない。

 勘助が献策した挟撃策については、数の上で優位に立っていることから裁可を下したが、もしかしたら罠に掛かりつつあるのは寧ろ自分の方なのではないか。

 その不安が、信玄をして信繁を呼び止めさせたのである。

「如何なるいくさを仕掛けてくるか読めぬ相手ゆえ、不安がないと申せば嘘になります。しかし如何な激戦とあいなろうとも、本陣さえ堅持することが出来ればこの挟撃策は必ずや成功致します。そのことは間違いございませぬ。いざとなれば、それがしが越軍に対する鉄の防壁と化する覚悟ゆえ、屋形様はひたすらに勝つための算段を・・・・・・」

 信玄は、父信虎在府中、信繁による家督相続の噂が家中に拡がり、誰も反対しなかった理由が分かる気がした。信虎の偏愛を盾に、家督相続に名乗りを挙げてもよかったようなところ、信繁はそうはしなかった。

 信玄に劣らぬ才気を持ちながら、長幼の序を重んじ陰に徹する分別も持ちあわせている。

 これは全く信繁の天分によるものだった。

 信繁のような弟がいるからこそ、信繁が弟だったからこそ自分はここまで来ることが出来たのだ。そして兄弟が合力すれば、その先にある風景を見る日もそう遠い未来の話とは思われなかった。

 信玄はその事に思いを致すと

「余の目的とするところは、単にこの一戦に勝利することにとどまらぬ。その先にあるものを見ておる。それは余一人のみでは到底なし得ぬ。これから先、いよいよ汝の力が必要なのだ。

 如何にも此度の戦は稀なる死闘となろう。

 信繁、決して死ぬでないぞ」

 と言う言葉が自然と口を衝いて出たのであった。

「承知。兄上の御上洛をこの目に見るまでは死ねません。こき使われてきたのが無駄になりますからな」

 信繁は軽口で返した。

 兄弟は揃って、篝火の瞬く妻女山を見上げたのであった。

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