終章(五)
勝頼が慰撫に努めたにもかかわらず、昌秀と長坂跡部の対立は
天正二年(一五七四)十二月、親類衆譜代衆等重臣が来年の軍議について談合していたときのことである。主君勝頼の意向を重臣会議に伝達しようと、その開催場所である山県昌景屋敷に入った長坂跡部に昌秀が噛みついた。
「来年の弓矢の談合は重要事で、決められた宿老のみが出席できるものと定めたのは御先代である。その遺訓を無視して何故入室するか」
長坂釣閑斎は昌秀の糾弾に接して困惑の表情を示しながら言った。
「御屋形様の御諚を宿老の方々にお伝えしようと参上したのです。まるでそれがし等を不忠のようにおっしゃるが、御屋形様の御諚をお伝えしようというのが不忠に当たるというのか」
「勝頼公とて他国からお越しの御屋形様ではあるまい。その御諚は聞かずとも知っておる。来年の弓矢の談合も、はじめは御前で開催するか否か御屋形様に伺ったものを、前々のとおりで良いと仰せであったからこのように我等宿老のみで執り行っているのである。
貴公等、御屋形様の側近ぶっておるが、その心根を知るは貴公等のみでないわ」
お互いが一歩も引こうとしなかった。
下手にいずれかに与党して、片方を敵に回すような面倒ごとに巻き込まれたくない、という心理が働いたものか、止めようとする者もいない。
その光景を見て名状しがたいわびしさを覚えたのは馬場美濃守信春であった。
(信玄公御存命の折には、斯くの如き醜い
と思うと、面倒ごとだからといってこの諍いをただ黙って眺めるだけという選択肢は信春にはなかった。
信春は昌秀に対して諭すように言った。
「我等小城とはいえ一城を預かる身で、どうしても御屋形様の御前から遠ざかってしまう。内藤殿、まずは釣閑老の話を聞こうではないか。釣閑老、御屋形様は如何仰せか」
「御屋形様はこの一両年のうちに、信長家康と無二の一戦を戦う決意でございます」
自ら促して勝頼の意向なるものを聞き出した信春であったが、即座に
(無理だ・・・・・・)
という考えが脳裡を
信玄が自らの病身をおして強行した西上作戦により、武田の財政と人材は逼迫していた。織田徳川相手に無二の一戦を戦おうというのならば、領民に新たな段銭や棟別銭を課すなどして財政を建て直さなければならないし、なにより軍役衆には休養が必要であった。
何故彼等側近はそのことを勝頼に言上しないのか。
信春は仲裁に乗りだした身も顧みず、そういって長坂釣閑斎を追及したい衝動に駆られたが、その前に
「無謀というより他ない。信長家康は難敵だ。一朝にして撃ち破ることができる相手ではない」
と言ったあと、その勢いのまま次のようにまくし立てた。
「思うに貴公は子息長坂源五郎を御先代に誅殺されたことを、未だ恨みに思っているのであろう。そして、御家を滅ぼして恨みを晴らそうと企て、無二の一戦などと若い御屋形様を焚き付けたのであろう」
昌秀が挙げた長坂源五郎は、永禄八年(一五六五)七月に飯冨兵部の謀叛に連座して処刑された長坂釣閑斎の子であった。義信事件の余燼が、収束後十年近い歳月を経ても
昌秀の言葉は、喩えれば刃引きもしていない真剣で相手に対し斬りつけたようなものであった。釣閑斎に対しては禁句であり、本当に相手と斬り結ぶ覚悟がなければ口に出来ない罵詈雑言であった。なので一同はこれを聞いてぎょっとした。
長坂釣閑斎は激しく立腹し刀の柄に手をかけながら
「源五郎が御先代に誅されたのは謀叛に同心したからで、当然のことだ。それを恨みに思う道理などあるものか。貴公こそ、これまで一通の感状も得たことがないのに、どのような手柄を挙げてこの場に顔を出しているのか、こたえてみよ!」
と啖呵を切った。禁句に対し禁句で応じたわけだ。
激昂した昌秀も抜こうという気勢を示したので、ここに至りようやく周囲の者は止めに入った。
馬場、山県、高坂は昌秀を抱きかかえるように止め立てした。小山田信茂と原
だが収まったのはその場での諍いだけであった。根本は、何も解決してはいなかった。
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