第三章(義信廃嫡)‐一

 永禄九年(一五六六)、信玄は上州箕輪城攻略の総仕上げに入った。

 今や越後長尾家に家名と職を譲渡した関東管領上杉家の直臣としてその矜恃きょうじを保ち続け、信玄の侵攻を幾度となく退けてきた名将長野業正なりまさは既に亡く、その後継に立った業盛なりもりは齢十八にして父の遺訓をよく守り箕輪城を保ったが、外周の支城を次々と攻略され孤立するに及び、ついに同年九月、城を包囲する甲軍に対して果敢に討って出て、城兵共々華々しい玉砕を遂げたのであった。

 勝頼はこの箕輪城攻略戦に従軍していた。

 勝頼にとって、箕輪城は三年前に自らが初陣を飾った思い出の地であった。

 その折、勝頼は箕輪城を包囲する甲軍の中にあって、初手柄をと意気込んでいたにも関わらず動きの乏しい攻城戦に物足りなさを感じていた。

 包囲中、勝頼は大物見おおものみ(威力偵察)に突出した長野家臣藤井豊後の一団を発見した。勝頼は自らの内衆を率いて早速追撃を開始した。

 しかし初陣の勝頼は内衆が警戒するのを尻目に、殆ど単身で敵地奥深く進出してしまったのである。箕輪城兵から見れば、包囲陣を形成する甲軍の動きは丸見えだっただろうし、甲軍にとっても取り立てて秘密を保たなければならない陣立てなどはあろうはずもなかった。したがって藤井豊後率いる大物見は城方からすれば特段出さなくても良いものだったし、勝頼から見れば強いて追う必要のないものであった。要するに、武田家一門の勝頼をおびき出してこれを討ち取り、包囲軍の士気を阻喪そそうさせようという藤井豊後の策だったわけである。

 勝頼はこの策に嵌まり藤井豊後隊の包囲に陥ったが怯まなかった。

 味方の後詰を期待できない位置に在る以上、この窮状を脱するには自らの力によるほかはないと一瞬にして覚悟を決めて

(敵は大物見の大将ただひとり)

 と思い定め、果敢にも歴戦の藤井豊後に挑み掛かり、組討くみうちの末にその頸を獲る手柄を挙げたのであった。

 この度の箕輪城攻めにおいても、勝頼は後継候補者としてよく戦い、家中における地歩を少しずつではあるが築きつつあった。


 新たな後継者を定めようとする一方で信玄は、義信廃嫡を正式には決めかねていた。

 これまで快川紹喜かいせんじょうき春国光新しゅんごくこうしん藍田恵青らんでんけいせいなど名僧の説得にも頑として応じなかった義信が今更翻意することなどよほどの情勢の変化がない限り考えられなかった。

 庶子を後継者として立てることを考えたならば、義信の命を絶つより他にない。

 如何に手持ちの侍衆を取り上げ、出家させたとはいえ、曾て嫡子の地位にあった義信を再び担ぎ上げて宗家に叛旗を翻す輩が出てこないとも限らないからである。

 だが信玄にはどうしてもこの長男を除こうという気持ちが起こらなかった。

 

 年は永禄十年(一五六七)に改まった。

 信玄は久しぶりに正室三条の方を訪ねた。

 それは、既に幽閉生活二年目に入っていた義信の処遇について、どうしても三条の方に話をつけておかなければならないという決意からの訪問であった。

 三条の方の美貌は、事件の心労により幾分衰えてはいたが、曾て晴信の来訪を頻繁に受けていたころと変わりなく、その時と同じようにうやうやしく手をついて晴信来訪を出迎えたのであった。

「人払いを」

 信玄が言うと、三条の方に仕える侍女達はそそくさとその居室をあとにした。

 三条の方と対面した信玄は、義信廃嫡を正式に告げようという当初の決意が揺らいだ。

 如何に国家のためとはいえ、痩せ衰えた正室をこれ以上追い詰めることは憚られたし、我が子の廃嫡を了とする母親がいるとも思われなかったからだ。

 三条の方は信玄の懊悩を知ってか知らずか、信玄の口から何事か言葉が発せられるまで黙って頭を下げているつもりのように見えた。

 東光寺からの使者の言によれば、義信は幽閉当初の勢いはすっかり失せ、廃人のようになってしまっているという話であった。呼びかけにも応じず、何事か口の中でもごもご呟いているので、耳を近づけ聞いてみると

「駿河が・・・・・・」

 とか

「仇討ちの軍兵を・・・・・・」

 という言葉が断片的に聞こえてくるだけだという話であった。

 信玄は、三条の方に廃人同然の義信の姿を見せたならば、或いは廃嫡やむなしの意見に傾くやもしれんと思いつき、三条の方に対し、当初の思惑を曲げて

「室よ。梅の季節になった。今度、東光寺へ花見に参ろう」

 と勧めた。

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