終章(三)

 信長包囲網の中核義昭を潰した信長は、次いで江北ごうほくの淺井久政長政父子を攻めた。

 淺井は越前の朝倉義景に援兵を請うた。要請を受けた義景は軍兵二万を率いて小谷おだに城後詰を試みた。しかし淺井の支城は信長の攻勢を前に続々落城し、救援の見込みなしと早合点した義景は本国への撤退を決する。信長はこの機を逃さず越前勢を追撃し、刀根坂において捕捉、痛撃を加え、その野戦軍を殲滅した。兵を失った一乗谷に信長手勢は雪崩れ込み、百年の平穏を保った一乗谷朝倉氏館はたちまち戦火に包まれ、義景は依然小谷城に籠もって抵抗していた淺井父子に先立って滅亡した。


 如何に堅城とはいえ後詰の見込みがなくなった小谷城は遂に落城のときを迎えていた。

 お市の方は共に自害することを夫長政に願い出たが、長政は許さなかった。

「信長公はそなたの兄ゆえ、無体な仕打ちはいたすまい。娘共々織田の陣中に落ち延び、救いを求めよ」

 長政からそう告げられたお市の方は、三人の娘を連れ泣く泣く小谷城を落ち、信長手勢に保護された。

 戦後、織田家中においてお市とその娘達は手厚く庇護を受け、不自由のない生活を保障されたようである。だが信長はそのお市母子を尻目に、淺井父子と朝倉義景の頭蓋骨に薄濃はくだみ(金箔)を施して、戦勝の宴の見世物にして興じたという。狂気じみた沙汰としかいいようがない。

 伝え聞いたであろうお市母子の心中、如何ばかりであったか。


 信長に叛旗を翻した大和の松永久秀久通父子は、信長包囲網に加わっていたこれら諸勢力が短期間のうちに滅ぼされてゆく様を見て、天正元年(一五七三、七月に元亀から改元)十二月に信長に降伏を申し出、赦されている。

 

 伊勢長島に籠もって信長の喉元に匕首を突き付け続けていた一向宗門徒は、信玄没年に行われた信長による包囲攻城を辛うじて退けた。しかし翌年、いよいよその攻略の意を強くした信長によって再び攻め囲まれ、後詰を得られず城内に餓死者が出るに及び、遂に降伏を申し出た。

 信長は降伏交渉に応じるふうを示しながらその実、彼等を赦免する気など毛頭なかった。なので、信長は兵に命じて寺域から退去しようという一揆勢に鉄炮を撃ちかけさせた。

 激昂した門徒衆は赤裸のていながら各々抜刀して織田勢に打ち掛かり、信長本営に迫る勢いであったという。信長の庶兄信広や弟秀成がこのために戦死したが、最後の攻勢もここまでであった。

 信長は一揆の残党が籠もる屋長島と中江の二城を厳重な包囲下におき、和睦も許さず火攻めにかけた。籠城していた老若男女約二万を鏖殺おうさつし、城内はたちまち阿鼻叫喚に包まれたという。


 これらの人々は、信玄の上洛に望みを賭けて蜂起した人々であった。遠からず甲軍が信長を打倒することに期待して、強敵信長と戦うことを敢えて選んだ人々であった。

 だが彼等が待ち望んだ武田信玄が、数万の精鋭を率いてその眼前に姿を現すことは遂になかった。

 信玄は自ら三遠東濃に戦乱を巻き起こしただけでは済まなかった。上洛の途上において病死したことにより、見も知らぬこういった人々の多くを窮地に追いやったことになる。

 病死につきやむを得ないことだったとはいえ、

「何故来てくれなかったのか」

 と恨みに思う者は、味方のうちにも多かったことだろう。

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