第一章(小田井原の戦い)‐二

 晴信はまず信繁を見据えながら

「いよいよ信方を排除せねばならぬ」

 と切り出した。信繁は、父信虎放逐の計画を兄から知らされた際の兄の言葉を忘れてはいなかった。兄の言葉を思い出すまでもなく、信濃経略の過程でその必要性を感じていたのが信繁であった。

「御意。されど兄上御自ら両識りょうしきの一に任じられた信方を廃すれば家中の動揺免れ難し」

 世上、力を持った家老を疎んじこれを排するため主家が兵を差し向けたり、毒殺したりして却って家中に騒動を引き起こす事件が頻発していた。世を挙げての下克上であったが、上は上で、下を抑えようと躍起になっていたのである。しかしながら、かかる安易な動きは家中に動揺を招き、さらなる騒動の拡大に直結する可能性があった。信繁はそれを恐れたのだ。

「それよ信繁。今、信方は表向き余に忠節を尽くしておる。力に任せ誅するは容易なれど、必ず反発する者が出よう。鴆毒ちんどくにて葬るもまた同じ。かといって放っておけば信方は益々ますます増長し、やがて我等に弓引くことは明らかだ。それゆえ頭を悩ましておる」

 晴信はそう言った後、懊悩と憤懣の一部を吐き出すように、ふっと一息ついた。

 気を取り直したように晴信は

「勘助はどう考えるか」

 と問うた。

「志賀城を攻めます」

 勘助の回答に兄弟は一瞬きょとんとした。武田が着実に勢力を浸透させている佐久において、笠原清繁籠もる志賀城が依然抵抗を示していることは確かに家中の懸案ではあった。だがこの場で問われたのは志賀城攻略の方策ではない。信方誅殺の方策なのである。

 信繁は

「軍議ではないぞ」

 とたしなめるように言ったが、勘助は気にするふうもなく

「城将笠原清繁殿は関東管領家に対し援軍を要請し、これに応じた上杉憲政公が昨今西上野菅原城将高田憲頼を志賀城に入れた由」

 と続けた。

「何が言いたい勘助」

 一向に勘助の発言の意図が読めない晴信は、信を置いて看経間かんきょうのまに呼び出した心根を踏みにじられたような気がしてむっ、としながらなじった。

「板垣様には名誉の戦死を遂げていただきましょう」

 勘助は言ってのけた。

 看経間に沈黙が流れる。

 兄弟には勘助の意図がはっきりと理解できた。晴信自らが信方を誅することなくこれを除くため、他国の兵を借りるということである。

「これまでの板垣様の戦い振りを見ておりますと、御自ら鑓を構え敵中に乗り入れ、敵前線を打ち崩すというようなことを繰り返しておられます。一兵卒であれば讃えられる武勇でも、物頭ものがしらのお立場としては決して褒められたものではありません。しかし信方様はその戦い方しか知らないようです。高遠、藤澤風情相手ならばそれでも通用したでしょうが、関東管領の軍兵ぐんぴょう相手ともなればまず通じますまい」

「志賀城を攻め立てて上杉憲政を佐久に呼び寄せ、それによって信方を討たせる、か」

 晴信は考え込むように呟いた。

 勘助は、甲軍が志賀城を包囲すれば碓氷峠を越えて関東管領が後巻うしろまきに出現するであろうこと、これを邀撃ようげきするために包囲軍中から板垣信方等に一隊を預け、小田井原近辺で後詰の一戦に及ばせることを献策した。

 晴信はその献策を受けて考え込まざるを得なかった。

 敵方と交戦の末の戦死であれば、確かに自分の手を汚さずに信方誅殺の意志を実現させることはできる。家中に動揺を招くこともなかろう。しかし一つ間違えば、晴信本隊が志賀城兵と板垣信方を葬った勢いを保った関東管領の軍に挟撃される恐れもあるのだ。信方を誅するために武田が敗亡すれば意味がない。

 信繁も同じことを心配したのか

「志賀城後巻の管領家に板垣一隊が敗れれば包囲軍も危うい」

 と思案顔で言うと、勘助はこたえた。

「破軍建返しの秘策がございます。小田井原にて別働隊が敗れ去っても、我が一命に賭けて必ずや甲軍を勝利に導き申す」

「その心意気やよし。しかしな勘助・・・・・・」

 信繁は尚も渋ったが、晴信はそれを制した。

「分かった勘助。余は汝が命を賭して余と於福との婚儀を実現させたことを知っておる。今回もその決意を信じる」

 そう告げて勘助の策を用いる旨宣言した晴信は、早速志賀城攻めの軍議を各将に布礼ふれたのであった。

 

 天文十六年(一五四七)閏七月、晴信は佐久において依然抵抗を続けていた笠原清繁を討ち滅ぼすために甲府を発した。同二十四日に志賀城を包囲した甲軍は、帯同した金山衆を敵方の矢弾から護りつつ土竜攻もぐらぜめを敢行し、包囲翌日には水の手を断ち切ることに成功する。

 だが城兵の意気は軒昂であった。これはひとえに関東管領家の後詰が見込まれたからに他ならない。一方の晴信も、信方排斥の密議を成就させるためにその出現を心待ちにしていた。

 八月に入って上州方面に予めはなっておいた透破すっぱ衆より、上州兵の動きが活発化している旨の情報がもたらされたのを皮切りに、時々刻々とその情報が具体性を増していった。各筋より

「倉賀野城将金井秀景が西上野の大軍を糾合きゅうごうして碓氷峠を越えつつあり」

 との情報を入手した晴信は、本陣に各物頭を招集してこれを邀撃する方策を論じた。晴信はその席上、

「敵は大軍だ。邀撃の別働隊が敗れれば包囲軍も破綻して甲軍は大いに敗れるであろう。上州勢迎撃の別働隊には特に武辺の者を差し向ける必要がある。板垣頼む」

 と機先を制した。信方が包囲軍残留を希望するより前に、特に信方を指名することで、軍議は信方を中心に邀撃部隊を編成する方針で進められた。

 軍議を終え帰陣した信方は憤懣やるかたないという表情をしながら、出迎えた嫡男信憲や曲淵勝左衛門に

「僅かな手勢で後詰の上杉と戦えなど、死にに行けと言われているようなものではないか」

 と当たり散らしたが、次第に冷静さを取り戻して考え直した。

 関東管領の軍兵が如何に大軍であろうとも、自分はいつものように自ら鑓を構え敵中に乗り入れ、前線を突き崩すより他に戦う方法を知らないのだ。そして今までそうすることによって幾度も血路を切り拓き、優勢な敵を打ち破ってきたのである。今回も同じではないか。晴信に如何なる意図があるにせよ、敢えて優勢な敵に自分を当てるというのならば寧ろこれを大いに破って晴信の鼻を明かしてやれば良いだけの話である。そうすることによって家中における自分の威勢はいよいよ揺るぎないものになるというものであった。

「出動の支度を」

 冷静さと共に、自信を取り戻した信方は、麾下将兵に呼ばわり上州勢迎撃のため、一旦包囲陣を引き払ったのであった。

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