第四章(三増峠の戦い)‐四

 城内の騒擾そうじょうを知ってか知らずか、鉢形城を囲む甲軍は挨拶程度の囲みを早々に解いて、小田原城目指して南下を続けたのであった。

 甲軍は北条領内を、出来るだけゆっくり、時間を掛けて進軍した。信玄はその間、軍役諸衆に対して刈田狼藉を推奨した。甲軍は農村に蓄えられている食糧はおろか、蔵匿された武具、民家の板塀、橋梁に使っている木材、田畑の稲藁、果ては山野の草木に至るまで文字どおり根こそぎ略奪しながら進軍した。

 軍議であらかじめ決していたとおり、今回の関東出兵は領土の獲得を企図したものではない。従軍する軍役諸衆に知行地を与えられないことを前提とした外征であるので、武田首脳部もこの略奪行為を黙認、というよりむしろ推奨したのであった。

 昌秀率いる小荷駄衆は、味方軍役衆が行く先々で略奪した品々を、荷物の種類ごとに分類して荷車に積んだ。昌秀は荷車を曳く夫丸ぶまる達に事細かな指示を下した。

「武具は、頑丈な荷車に載せること」

「傷んだ荷車には糧秣その他の分捕ぶんどり品を載せること」

「荷車が破損したり駄馬がへたり込んだ場合は未練なく打ち棄て、そのために手の空いた夫丸は他の荷車に合力すること」

「打ち棄てた荷車や駄馬は後続の妨害とならぬよう措置すること」

 その中でも夫丸達が不審に感じたのは

「武具を積んだ荷車には、一目でそれと分かるように白地の長襷ながたすきを括り付けること」

「長襷のない荷駄は、指示があり次第これも未練なく打ち棄てること」

「長襷を括り付けた荷駄であっても、車輪の破損により移動不可となった場合は躊躇せず打ち棄てよ」

 という指示であった。

 小荷駄衆の常識で考えれば、国に持ち帰る分捕品は多ければ多いほど良いに決まっていた。分捕品を残らず国に持ち帰ることこそ小荷駄衆の任務の真骨頂であった。その奉行である工藤昌秀本人が、何割かの、それも相当数の荷駄が失われることを前提にこういった指示を下しているように思われて、夫丸達は内心不思議がった。役務に服している間、私語が禁じられている夫丸達は、昌秀の指示が意味するところを互いにあれやこれやと詮索することも出来ず、ただ彼の言うとおりに、分捕品の武具を積んだ荷車に白地の長襷を括り付けたのであった。


 さて、甲軍は早々に兵糧が欠乏して帰国を余儀なくされるであろう、という北条家首脳部の目論見は外れ、自領内で無秩序に物資を調達して、ますます肥え太る敵方に対し、北条家臣団からは主戦論が噴出し始めていた。小田原に籠もる氏康氏政父子はこれら短絡的な主戦論者をよく抑えたが、一方で次の標的とされた滝山城将で氏康次男氏照は迫り来る甲軍本隊とは別の、新たな脅威に直面していた。

 信玄が郡内に残してきた小山田信茂に、滝山城に向けて出陣を命じたのである。これにより滝山城は甲軍本隊と小山田信茂率いる郡内衆から挟撃される事態に陥った。氏照はこの危急を打開するため城兵の一部を割いて小山田勢を迎撃するように命じた。

「存分に鬱憤を晴らせ」

 氏照は討って出る迎撃隊を激励したが、この部隊は廿里とどり近辺において地理に詳しい小山田勢に散々蹴散らされ、這々ほうほうていで滝山に逃げ帰ってくる有様であった。

 滝山はいよいよ丸裸となった。小田原から後詰が送られてくるという沙汰もない。

「滝山は持たない」

 氏照は城を枕に討死することを覚悟したが、甲軍は滝山城の囲みも早々に解いて一〇月一日に小田原城を囲んだのであった。


「これが他国に聞こえる小田原の惣構そうがまえであるか」

 信玄は包囲した小田原城周辺を自ら巡検して嘆じた。

 城郭全体を惣堀が三里にわたり取り囲んでいる。城壁の大部分は木柵を立てているが、一部に白壁が用いられており鉄炮に対する防御を念頭に普請している様子が垣間見られた。

 城内要所には多数の物見櫓が建てられているのみならず、一角には町屋すら包含していた。包囲軍陣地からこういった城内建築物との距離は相当あり、火箭ひやも届かぬ場所に位置している。

 この小田原城、八年前に十一万超の関東諸衆に包囲されながら持ち堪えた当時より、更に防備が強化されているというのである。それを二万ばかりの甲軍で陥落させられる道理がない。

 領内諸城の城兵を糾合した氏照が、滝山城を出陣したとの報を得た信玄は

「四日には囲みを解いて帰国する。城下に火を放て」

 と命じ、その様子を切歯扼腕眺めている小田原籠城衆を尻目に帰国の途に就いたのであった。

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