第三章(八幡原の戦い)‐九

 二刻は待った。

 遠雷のような銃声が戦場に響き渡った。まとまった数の鉄炮が一斉に放たれたものと思われた。続いてうしお湧くが如き喚声が南の空に上がった。

 それまで甲軍を押しに押しまくっていた越軍諸衆に、明らかにそれと分かる動揺の色が広がってゆく。

 信玄が座する本営に、百足衆が一騎、躍り込んできた。

「妻女山別働隊、千曲川を渡河しつつあり」

 百足衆のもたらした情報に、旗本衆からどよめきが起こった。

「御屋形様、勝ちましたぞ」

 旗本衆は皆喜色をたたえて口々にそう叫んだ。

 だが依然軍配を固く握り塑像そぞうのように動じない信玄に弛緩した様子は微塵もない。

「各隊に伝えよ。勝ちは依然定まったわけではない。油断禁物、とな」

 信玄は百足衆にそう伝令するよう伝えたが、それはそのまま援軍到着の報に湧く旗本衆への戒めでもあった。

 

 妻女山攻撃隊は八幡原めがけて猛進していた。

 同隊先鋒馬場民部少輔みんぶのしょう信春は、

「急げ、急げ」

 と諸衆を励ました。

 別働隊の眼前には千曲川が横たわり、その向こう岸で甘糟あまかす近江守率いる越軍殿軍しんがりが鉄炮を構えている姿がはっきりと確認できた。

 八幡原へと至るには千曲川を敵前渡河しなければならない。甘糟近江守はその別働隊に横矢を射かけられる絶好の位置に布陣している。

 だが本隊の危機を知る馬場民部少輔に躊躇しているいとまなどなかった。馬場民部は自ら河中に乗り入れ、諸衆の先頭に立った。

 その甲軍先鋒が最も河床の深くなる中ほどに達した丁度その時、越軍殿軍から矢弾が射かけられた。馬上の信春の傍らに、弾着の水柱が幾筋も上がった。

 信春の後方では引っ切りなしに水音が鳴り、それと同時に麾下将兵の断末魔が聞こえた。

 甲軍別働隊の千曲川渡河を許してしまえば戦況が一気に悪化することが目に見えているので、甘糟近江守による渡河妨害は熾烈を極める。

 別働隊は越後殿軍が加える妨害のために相当の犠牲を強いられた。はるか小勢に見える甘糟近江守の鬼神の如き戦いぶりに、甲軍諸将の間では

「すわ、政虎自ら殿軍を率いて出張ってきたか」

 などと取り沙汰されるほどであったという。

 ともあれ、急ぐ甲軍別働隊はこの妨害に怯まず猛進して、遂に八幡原に到着した。

 戦況は、ほんの四半刻(約三十分)前から一気に逆転してしまったのであった。


 越後本営に駆け込んできたのは齋藤下野守しもつけのかみ朝信である。

「陣所を離れて如何致した」

 政虎は齋藤下野を横目で見ながら泰然として問うた。

「今少し、及びませんでしたな」

 なじるふうでもなく、肩で息をきながらも朝信は静かに言った。退却を勧めに来たのは明らかであった。

「もとより下策なり」

 政虎はいささか自嘲めいたものの言い方をするや、

「今や浮き足だった味方軍役衆を励ましたとて如何ほどのことがあろう。本戦の目的とするところは信玄の頸ただひとつ。汝は兵をまとめ北を目指せ。また会おう」

 と言うと、跨がっていた愛馬、放生月毛ほうしょうつきげを励まして一騎駆けに駆け始め、旗本衆は政虎に遅れてはならじとこれに続いた。

 朝信は、制止する暇もなく走り去った政虎の背を視線で見送るより他になかった。


 退く越軍と、これを追う甲軍との激流の中を、政虎主従は遡上そじょうしてゆく。

 政虎は甲軍を大いに叩いたという手応えを感じてはいたが、

「まだ足りない」

 とも考えていた。一番欲しいものがまだ手に入っていなかったからである。

 即ち、信玄の頸。

 彼の辣腕らつわんを以てすれば、戦死した国内軍役衆の跡目相続やそれに伴う知行安堵、新たに獲得した領土の知行宛行ちぎょうあてがいなどの仕置を素早く終えて、間を置かずまたぞろ国境付近に出張ってくるであろう。平穏は一時的なものにとどまり、越後は遠からず戦火に包まれるに違いないのである。

 甲軍の戦意を挫くには、信玄の頸を討ち取りその心胆を寒からしめて越後侵略の意図を破砕はさいするよりほかない。

 信玄の首級を挙げんと勇躍飛び出してきたが、もとより容易ではないことなど百も承知である。だが味方軍役衆が崩れ立った今、その諸衆の力を頼んで信玄を討ち取ることなど出来ようはずがなかった。

 政虎は手にしていた竹杖を振るった。

 ようやく追いついた旗本衆はその竹杖が指し示す方向に従って配置し、政虎を中心に据える輪形陣りんけいじんがあっという間に形成された。

「御実城みじょう様、信玄首級を挙げんとの思し召しでございましょうが、信玄は逍遙軒しょうようけん信綱しんこうを筆頭に数多あまた影武者を準備しているとのこと。これを見破り討ち取るは容易ではございませんぞ」

 政虎の隣を走る旗本衆が叫ぶように注進したが、政虎が

「汝には信玄本陣が判らぬか。ならば余に続け。後れを取るな」

 と示した自信に、その旗本は押し黙り、政虎に追随するよりほかなかった。

 政虎は信玄がごく最近、甲斐恵林寺えりんじ快川かいせん紹喜じょうき和尚の揮毫きごうによる


 疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山


 という旗標はたじるしを本陣に掲げるよう定めたことを知っていた。

賊徒ぞくと、兵法を極めたつもりか)

 必ずや討ち取ってみせると心に定め信玄本陣を探す政虎は、「孫子」軍争篇第七より採られた十四文字が、紺地の旗に金泥こんでいで染め抜かれているのを遠くに発見し、いよいよ愛馬を励ました。

 政虎は竹杖を捨てて、名刀小豆あずき長光ながみつをすらりと抜いた。

 白刃が陽光にきらめいた。

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